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読書をしながら、子育てしながら、お仕事しながら、人間の内面についていろいろ考えたりする毎日

無上の喜びを追求して生きるということ その4

無上の喜びを追い求める生き方、そのヒントはどこにあるのでしょう?

 

モイヤーズ 永遠の生命の泉、すぐそこにある至福の泉からどうやって汲めばいいか。なにかアドバイスを。

 

キャンベル 私たちはいつもいろいろの経験をしていますが、そのうちふっとそれを感じることがある。自分にとって無上の喜びがどこにあるかを直感する。それをつかまえることです。その先がどうなるかは、だれにもわからない。自分のことは自分で見極めるよう努力することです。

 

モイヤーズ 先生がご自分の至福を知ったのはいつですか。

 

キャンベル そうですね、子供のときでした。私はまっしぐらに生きて、だれの干渉も受けませんでした。家族は私がほんとうにやりたいと深く望んでいることをするようにと、常に助けてくれました。私は、人生に問題があるということにさえ気づきませんでした。

 

モイヤーズ 私たちは親として、どうしたら子供たちが自分の至福を見つけるのを手伝えるんでしょう。

 

キャンベル 自分の子供をよく知った上で、注意深く見守ることです。手助けはできますよ。私は、セイラー・ロレンスで教えていた頃、学生のひとりびとりと少なくとも二週間に一回、30分かそこら話あったものです。学生が読んでいるはずの本の話などしているうちに、突然、その学生が真剣な反応を示しているものに突き当たる。

 

すぐわかるんです。目がパッと開いて、顔つきが変わる、人生の可能性がそこに開けたわけです。

 

私は心のなかで、「この子が途中で投げ出さなければいいが」と祈るだけです。投げ出すかもしれないし、投げ出さないかもしれない、しかし、もし投げ出さずに食いついていくなら、その子はその部屋で自分の人生を見つけたことになります。

 

この「はっとする瞬間」というのは、なかなかことばにしづらいですが、わたしにも経験があるし、こどもたちもこうした反応をすることがあります。

 

たくさんありすぎて、その中のどれなのか、という問題はありますが....。

 

でも、そうした瞬間を見逃さず、その子自身がその喜びを追求することを邪魔しないということ、教育ってそのひとことに尽きるのかなと思ったりします。

 

 

 

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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こどもたちの様子

わたしが仕事を始めて約一ヶ月。先週はインフルで家にいたり、連休もあったりで、こどもたちは存分に母親に甘えることができて満足そうでした。

 

いまのところ、学童保育や幼稚園の預かりが嫌だと泣かれることもなく、ママ仕事にいかないでといわれることもなく、いい感じにスタートをきれたようです。

 

上の子は特に、一度嫌だといいだすとてこずることが予想されたので、最初は学童保育に行く日を週2日ほどに設定しました。行く前は「行きたくないなあ」とぼそぼそいっていました。それは大人でも同じ状況だったらいやだろうなとおもいます。学童は学童で、来ているこどもたちで関係性ができあがっているところへいきなり入っていくわけですから。

 

他の時間的な都合もあって、最初の一ヶ月は親に手伝いを頼み、週2回はばあばがきてくれる体制を整え、6時限で、学童で過ごす時間の短い日など、行きやすい日に週2日学童保育に行くことにしました。

 

行ってみると、同じクラスのしっかりものの女の子たちがいろいろ教えてくれたり、学童に行くにもクラスの友達がみんな一緒に行ってくれたり。(たまたま家の方角が、学校から学童保育に向かう通学路にあたっていたので、いままでも学童メンバーと帰りに一緒になることが多かったようでラッキーでした。)

 

そして、学童の職員の方でもひとり、きめ細かくみてくださる方がいることがわかり、わたしも安堵です。

 

本人は「学童ってすごくいい、だっておやつがいろいろ選べてたくさん食べられるし、マンガだって読めるし、だれも宿題やれっていわない」とお気に召したようで一安心です。

 

下の子の方はといえば、幼稚園の預かり保育はもともと時々いっていたし、園自体、小規模で先生の目がこどもたちに行き届いている感じなのでわたしも安心ですし、こどもも楽しく通っています。


下の子は4月から小学校に上がるので、スムーズに馴染めるかどうかよく見ていないと、とは思っていますが、同じ幼稚園からの友達もたくさんいるし、朝は上の子と一緒に学校に行けるし、学童も上の子と一緒だし、本人は新しいランドセルや筆箱が届いたのを眺めてうれしそうにしていて、いまのところなんとかだいじょうぶそうかなと感じています。

病後のお散歩

運動が不足すると、泣き、怒り、暴れまくる下の子のために、きょうもお散歩にでかけてきました。

 

上の子はまだ体力が完全に戻っていないらしく、すぐ疲れたといってぐずるのであまり無理はせずぼちぼちと大きな公園を半周くらいしながら遊んで帰って来ました。

 

少しでも自然のある空間でのんびり自由に遊ぶ時間があると、癒されるようです。(こどもを見ていてのわたしの実感です。)

 

上の子はまだ出席停止期間中なので、念のためこどもがたくさんいる遊具エリアは避けます。

 

八重咲きの梅が咲いていてきれいでした。近くにいくといい匂い。

 

これは何の実なんでしょう? とてもきれいな青い色の実がおちていてこどもたちは喜んで拾いました。

 

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うちにかがくのともの「つばきレストラン」という絵本があるのですが、それを読んで以来、つばきの花があると、蜜甘いかな?といって指を突っ込むのがお約束です。

 

ちなみに「つばきレストラン」というのは、鳥たちがつばきに蜜を吸いにくるからレストランです。

 

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こないだ本当にメジロが蜜吸ってるとこ見たよ、ほんと?とお話ししながら。

 

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松葉相撲もしました。

 

 

松ぼっくりをみつけた下の子に、ここに松ぼっくりを置くのにちょうどいいところがあるよ、と教えてあげたら(木の幹がテーブル状にえぐれていました)、なにかお話しのスイッチが入ったらしく、魔法のコンソールに松ぼっくりをはめこむと「ぴっかーたらららら」とか音楽が流れて、変身できる、ということになり「ほら!かわいく変身したよ!」と喜んでいました。

 

どーんじゃんけんぽん、とか、忍者になって柵の上を歩くごっこもしました。

どんな社会なら働きやすく、子育てしやすいか

自分なりの仕事のやり方、家事や生活、子育てとのバランスについて引き続き考えています。

 

  • 専業主婦+仕事人間サラリーマンの家庭のリスク

 

それぞれ自分の特性を生かして生きればいいのだから、専業主婦で生きて行くという人や、そういう人にサポートしてもらってばりばり働きたい男性(またはキャリアウーマンと専業主夫とか)がいてもいいのかな、とこないだは考えたのですが。

よく考えてみたら、やはりそのケースで心配なのは、その体制が崩れた時どうするか、ということですよね。稼ぎ手が職を失った時、どうするか。専業主婦の離婚の場合は同じく収入がなくなるリスクがあります。離婚などの場合、家事や子育てをしてくれていた人が突然いなくなったらどうするか。

 

そう考えると男性も女性も、いつでも働けるような状態にしておくと安心ですよね。となると可能ならやはりそこそこ仕事を続ける方がいいのかも。行政がもっと学び直しやインターンなどのチャンスを増やすのもいいですよね。企業が中途採用を積極的に行うのもいい。

 

また、主な稼ぎ手として働いているからといって、男性もパートナーに甘えることなく、家事も育児もそこそこしておいた方がいい。そのためには自分の働き方もしくは企業側の働かせ方も見直す必要があるでしょうね。(ブラック企業では無理な相談ですから)

 

 

  • 働き続ければもちろん生涯年収は増える、それはわかってるけど

 

日本は終身雇用制が根強いので、同じところに長く勤めるほど収入が上がります。だから、女性も出産、子育てでキャリアを途切れさせず働き続けた方がいい、それは確かに一理あるし、できる状況ならそうしたらいいと思います。

 

でもそれにこだわりすぎるのもどうなんでしょう。

 

そもそもそんなことが無理なケースもあると思います。こどもの障害や病気など毎日のケアが必要な場合、社会でそれをしてくれる体制は整ってないですから、日本では母親がやらざるを得ないですね。そういうケースで離職する話も実際に見聞きしています。

またそこまでいかなくても愛着などの問題があって、こどもがよい状態でない場合はケアが必要になるかもしれないです。

保育園が足りないから増やせ増やせというけど、ニュースでひどい保育士の虐待の話をきくと、質を考えないでただ増やすことになにも意味はないんじゃないかと思います。

 

やはり社会全体として、こどもが毎日笑顔でいきいきと過ごせる環境を一番に考えてあげたいですね。少子化社会だからなおさらです。

 

うちはこどもたちが繊細タイプだったので、いままで家にいてしっかりこどもと向き合ったのはよかったし後悔していないです。特に上の子が小さい頃は結構な問題児でしたから、預けて働くのは難しかったかもしれません。

 

純粋に柔軟な働き方ができそうな選択肢は、いまの日本では特技を生かしたフリーランスや自営ですが、先日学童保育の申し込みに行った時書類をみてびっくりしました。

 

とにかくこどもの母親も父親も、どこぞの企業で働いているという就労証明を出せといわれます。失業中で就職活動とかも認められません。(病気や介護、学校に所属しての勉強は枠がありました。)フリーランスや自営業の方は、家でこどもみられるでしょとばかりに、自分で就労時間を書いてこれこれこういう事情で学童保育が必要だと申請しなさいといわれます。

 

まあ、すぐは変わらないでしょうけど、やはり将来的には行政でこういうところをなんとかしてほしいですね。いろいろな境遇で働く人をサポートする。介護や育児、看病などの負担を女性だけに押し付けずに公的サポート、サービスを充実させる。

 

シングルマザーへのサポートは結構あるみたいで、それはいいことなんですけど、いろいろなケースに対応できるサポートが必要です。シングルファーザーだからサポート受けられなかった、とか決めた枠からちょっとはみ出すとサポート受けられないみたいな硬直したサービスでは意味がないですよね。

 

働きたくなったらいつでも働ける、離婚などで家事や子育ての手が足りなくなったらいつでもサポートを頼める、そんな社会でみながそこそこ仕事しながらそこそこ家事や子育てをしていろいろな変化に柔軟に対応して生きていけるといいのかなとそんなことを考えました。

 

生活保護の額を下げることを検討するより、いま働きたくても働けない人をサポートして働いてもらう方がいいということ、政治家のみなさんにはやく気づいて欲しいです。サポートのための雇用だって生み出せるじゃないですか。

 

また、母親にだけ負担を押し付けてそのくせ評価もしないといういまの状況が、虐待や心の余裕のない子育てにつながり、不幸なこどもを生み出しているのかもしれないということは、いま直接子育てに関わっていない人たちにもぜひ考えて欲しい問題だなと思います。

 

専業主婦・専業母の「虚しさ」の正体

今週わが家をインフルエンザの猛威が襲い、病児保育などのアレンジもうまくいかず、久しぶりに平日に休みを取り、出席停止期間で幼稚園や学校に行けないこどもたちを見ていました。病気といっても本人たちは熱は下がって元気なので、普通に遊んで、宿題させて、時間にごはんを食べさせて、という専業主婦ならあたりまえの1日でした。

 

このところ平日昼間は仕事に出ていたので、それに比べてみると、家にいれば、他人の目を気にすることもないし、時間のやりくりもある程度自分の裁量でできるし、こどもと遊ぶのも楽しいし、たまにするには楽しい時間ともいえます。

 

でも、専業主婦をしている時に感じるなんともいえないやりきれなさというものも確かにある(あった)と感じました。

 

例えば、人は得意なことをすればいいのだ、それに対価を払ってもらえることも払ってもらえないこともあるけど、無報酬だからといってその仕事の価値がないというわけではない、必要とされる仕事はすべて尊い、といわれればその通りだと思います。育児の他にも介護とか病人の看病とかいろいろあるでしょう。

 

例えば家事が得意な人もいて、それで本人が楽しくやっていけるならまあ確かに何の問題もないし素晴らしいなと思います。お料理の工夫をするのが好きとか、お客様をよんでおもてなしするのが好きとか...。

 

ただ、じゃあ今までわたしの感じていたやりきれなさはなんだったんだろうとふと考えます。

 

基本的にこどもは好きだし、こどもと遊んだりするのは楽しいです。ただ、家事はそんなに得意じゃないし、そこまで時間をかけてやることに意義は感じないタイプです。だから専業主婦としてなにか評価されるようなものは持ち合わせてないです。

 

それに専業主婦といいつつ、家事は結構家族がやってくれています。

 

家事や育児のどちらか、または両方得意、仕事が得意、いろいろバランスよくできるとかさまざまな人間のタイプがあるし、あって当然ですよね。

 

まあわたしはどちらかといえば仕事で受ける評価の方が、家事で受ける評価より高いのかもしれません。

 

そう考えると人間ってやっぱりなんかいい評価を得たいという気持ちがあるということなんですね。きっと。

 

なんかやっぱほめられたい。そういうことかと。

 

自分はよくやってるなとおもうし、友人や家族はねぎらってくれるけれども、それだけじゃなく第三者から評価されたい、役に立ってるという実感が欲しいと。

 

日本の社会全体の風潮として、高度経済成長期が終わった後も、みなが過労気味で余裕がなく、ぎすぎすしていて、家事や子育てという無償の尊い行為を尊重する気持ちを持てないということも大きいと思います。

 

アジアに滞在していた友人に聞くと、子供連れだとみんなが優しくしてくれる、優先してくれる、といいます。それが日本ではまったく見られないとも。

 

専業主婦というのは、高度経済成長期に働きすぎるほど働くサラリーマンをサポートする機能として有効だったわけですが、専業主婦という形態自体、明治以降に確立されたものだとこないだ雑誌の記事で読みました。

 

日本はこれから低成長期の時代です。

 

専業主婦を尊重できないのであれば、せめて夫婦共働きやシングル子育て、などいろいろな働き方もあることを前提として、それでも家事育児や豊かな生活が成り立つように社会の仕組みを変えた方がいいですよね。

 

まずは社会全体で、専業主婦に甘えてきたことをよくよく嚙みしめる必要があるのではないかと思いました。

 

仕事と自分という観点でいままでを振り返ってみると、ぼーっと夢見がちに生きていた高校生、大学生時代に、いろいろ魂を揺さぶられるようなことが起き、強制的に現実に立ち向かわざるをえない状況になり、やはり自分で食扶持を稼いで経済的に自立しないとこの世界では発言権もないのだと痛感し、一転就職しバリバリ男並みに働いた20代。

男並みに働くということが、なんて功利主義で、権力闘争だらけで、生活を楽しめる余裕もないほど働きづめなのかということを身を持って知り、体を壊して退職し、その後結婚して専業主婦時代に突入、自分探し時代を経て妊娠、出産して、生まれつきの繊細さを持ちなかなか難易度の高い子どもに200%つきあった時代を経験して今に至るわけですが、どこにも100%はフィットしない自分がいました。

 

そう考えると、こどもの教育について深い話ができる仲間を得て、家庭のことやこどものこともしながら、仕事もできるいまの環境は、ちょっと忙しいけどすごく自分に合ってるのかなという気もします。

 

なんだかんだいってありがたい話ですね。

 

無上の喜びを追求して生きるということ その3

ジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」より。

 

幸運や不運に振り回されず、どんな状況でも静かな喜びをもって生きるとはいったいどういうことなのでしょう?

 

キャンベル自身が大恐慌の中職も金もないのに幸せに過ごした体験を引用します。

 

キャンベル わたしは1929年に、学生としてヨーロッパから帰ってきました。ウォール街の大暴落が起こるほんの三週間前でした。だから、5年間色につけなかった。当時はほんとに職がなかったんです。私にとってはすばらしい時期でしたよ。

 

モイヤーズ すばらしい? 大恐慌どん底が? いったいそのどこがすばらしかったんでしょう。

 

キャンベル 私は貧しさを感じませんでした。ただ、お金が全然ないと感じていただけで。あのころ、人々はおたがいにとても親切でしたよ。例えば、わたしはフロベーニウスを発見した。フロベーニウスが突然私の心をとらえたんです。彼の書いたものを全部読まなくては気がすまない。そこで、ニューヨークで私が知っていた書籍販売会社に手紙を書いたら、本を送ってくれて、職が見つかってからでいいと言ってきたんです、四年後ですよ、就職したのは。

 

ニューヨーク州ウッドストックに、すばらしい老人がいました。小さな地所を持っていて、まあ鶏小屋みたいな家を年二十ドルかそこらで、自分が将来を見込んだ芸術家の卵に貸していた。そこには水道はなくて、ところどころに井戸とポンプがありました。老人は、水道に魅力を感じるような種族は好きじゃない、だから水道は引かない、と公言してましたよ。私はそこで基礎的な読書と研究の大部分をしたのです、すばらしかった。私は自分の至福を追求していました。

 

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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無上の喜びを追求して生きるということ その2

 無上の喜びを追い求めなさいとジョーゼフ・キャンベルという人がいっている、という話の続きでした。

 

milkaddict.hatenablog.com

また、一生のうち一度もやりたいことをしたことがない、と話す父親のエピソードが出てきました。楽しむということ、喜びを追い求めることが自分の中でタブーとなってしまっていて、まるで楽しめないという人も世の中には昔から現代に至るまで無数に存在している、ということです。

 

現代でもたくさんの人が、心の底では喜びを追い求めて生きたい、と思いながら、「そんなことは不可能だ」という思い込みに縛られてあきらめてしまったり、恐怖にコントロールされて、なぜか辛い人生にフォーカスして生きてしまったり、ということはたくさんあるとおもいます。

 

それでは無上の喜びを追い求めるとはどんなことでしょうか?

 

例えばそれは、宝くじがあたることを夢みる、とかそんなことではないですよね。

 

そうした、刹那の幸運というものは、人生に存在するけれど、長続きするものではない、ということはすぐにみなさん考えつくのではないでしょうか。

 

不運、幸運が折り重なる人生で、いつでも心を落ち着けて静かに微笑むような態度で生きていくにはなにが必要でしょうか?

 

ジョーゼフ・キャンベルは、まさにそこで無上の喜びを追い求めることが必要だ、といっています。

 

キャンベル 無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まあ考えてごらんなさいーなんという人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。きみたちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。

 

モイヤーズ 自分の幸福を追求すると、どうなるのでしょう。

 

キャンベル 無上の喜びに行き着く。中世のいろんなものによく出てくるイメージに運命の輪があります。中心の軸と、その周りを回転する円からできている。

 

例えば、もしあなたが運命の輪の中に取りついたとすると、あなたは頂点から下がるか、底辺から上がっていくかのどちらかです。でももし軸に取りついたなら、常に同じ位置にいる。

 

結婚の誓いの意味はそれですね。健やかなときも病めるときも、豊かな時も貧しいときも、つまり上昇するときも下降するときも、あなたと共にいる。あなたは私の中心であり、私にとって無上の喜びである。あなたが私にもたらすかもしれない富ではなく、社会的地位でもなく、あなた自身が至福なのだ、無上の喜びを追求するとは、こういうことです。

 

 

幸運な出来事があれば舞い上がり、不運に見舞われれば絶望する、というように輪の外側を上がったり下がったり、というのが普通の人のやり方だとすれば、輪の中心の部分に常にいること、それが無上の喜びを追い求めるという生き方だ、というのです。

 

他人から見れば苦難、不遇としか見えない状況でも、自分の無上の喜びを追い求めていれば幸せにすら感じることができる、ということです。(もちろん生きていくための最低限の衣食住を確保することは前提としてですが)

 

芸術家や研究者などのインタビューで、好きなことをしている時は努力も努力に感じない、苦難も苦難と感じない、というエピソードを聞くことがありませんか? 

 

好きなことをやっている時、その情熱に導かれるままに行動している時は、他人から見るとびっくりするようなことを知らず知らずのうちにやってのけていることがあるものです。

 

続きます。

 

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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