なぜ 勉強するの?
上の子は最近宿題ができません。3年になって気が緩んでいるのかもしれません。1年になったばかりの下の子がはりきって音読しているのを見て「あーあ。1年のときは宿題ちゃんとできていたのに最近できないんだよな」というので、少し宿題や勉強についてお話してみました。
◯◯はいまは小学生だから、宿題だけなんとかやれば、あとはおもいっきり遊んだ方がいいとママは考えているよ。◯◯のおともだちは毎日塾とかプリントやるお教室に通ってる子たくさんいるよね。でもママはそういうのは必要ないとおもっているんだ。どうしてかというと、好きなことをおもいっきりやったり、遊んだりする方が賢くなると考えているからだよ。
だって◯◯も、プログラミングが楽しいといってやっているうちに知らないうちにたくさん勉強できちゃってるよね。他にも遊んでいるうちに知らずに身についていることがたくさんあるんだよ。
「うん、やってるうちにいろいろ覚えちゃったよ!」とこども。
ところで、どうして勉強するんだと思う?
あのね、少し前にはこういう考え方が流行ったの。それは、小さいうちから塾にいってたくさん勉強すると、学校の勉強が得意になって、それで難しい中学校や高校、大学に進むと、いい会社に入ることができて、それでずっとそこで定年まで働いて一生楽に暮らせる、という考え方。
ママはそういう考えは古いとおもっているんだ。だけど、いまもそういう考えの人はたくさんいる。だから、◯◯のおともだちでも塾とかいってる子がたくさんいるんだよ。
ママは、自分の好きなことをやるために必要ないと思えば、大学に行かなくてもいいとおもっているんだ。例えば、着物の柄をデザインして染める職人になりたかったら、高校や大学に行かないで、職人さんに弟子入りしてお仕事を手伝いながら勉強したり、やり方を練習したりする方がいいかもしれない。
でも、パパは、たくさん勉強していい学校にいったほうが、いろいろなおもしろい人と知り合いになれて楽しいし、いい人生が送れると考えているみたいだよ。
ここで「えー?ママとパパで考えが違うの?」との声。
そうだよ、ママとパパも考えが違う。◯◯にもまた違う考えがあると思う。どうしたいか自分で考えて自分で決めるんだよ。例えば、プログラミングが楽しくて、そういうお仕事がしたいと思って、そのためには大学行った方がいいかなとおもったら、自分で勉強した方がいいとおもってするかもしれない。
あと、勉強ってとってもおもしろいんだ。おもしろいから、大学にいって勉強してもまだ足りなくて、その後大学院というところでもっと勉強する人もいるし、科学者とかそういう人たちは一生研究してすごすんだ。それは楽しいからなんだよ。
こんなことを話しました。
なんかもっと話すことがあるような気もしたけど、こどもがあきちゃったみたいなのでこのへんで切り上げました。それなりになるほどとおもっているようでした。
「不安」という名の妖怪
自分の親が不安発作を起こす話を以前にも書きました。
最近また同じようなできごとを体験したので、それについて考えたことを書いてみたいとおもいます。
他人の起こす不安発作をよく観察していると、最初はぽつりぽつりと口にする不安が、そのうちどっと爆発的にその質と量が拡大するということに気がつきました。
そうなるとそれこそ発作のようになって止まらなくなっているようなのです。
なんでも不安になるようで、ささいなことがすべて不安の引き金となります。
そうなると、「不安」というもの自体に乗っ取られているようになり、普段の人格では考えられないような言動が起きてきます。
論理的でなかったり、時に人を傷つけるようなことを言ってみたり。
口にする不安の中身も「不安のための不安」みたいになってきます。
まるで不安という食べ物をもっともっとと欲しがる生き物がとりついているんじゃないかという感じです。
ユングは、人々の意識は奥の方で「集合無意識」というものにつながっているといっていたと思いますが、ネガティブな気持ちを強く持ち続けるとネガティブな共同幻想のようなものにつながってしまうのかもしれませんね。
敏感さを持つ人間としては、特に気をつけた方がいいなと思いました。
ちなみに、不安を感じた時には「こんな風になったらどうしよう」と不安を否定するよりも、自分の中に不安があることを自然なことだと認め、いま自分はなにをどのように不安に思っているのか、透明に見つめることが大切だと考えています。
「不安なんかないぞ」と見て見ぬ振りをすると、なぜかますます不安が雪だるまのように大きくなっていくのではないでしょうか。
自分の経験からもそう感じるし、不安発作を起こしている親に向かって、冷静なコメントをすると、激高して絶対に認めようとしないので、特にそう思います。
また、常に自分の状態をよく見つめ、いまいったことは本当に自分がいいたかったことなのか、よく観察することで、本意ではないことをいったりしたりしてしまって、自分の大切な人を傷つけるようなことを防げるのではないかと思います。
学校に行きたくないといわれたら
上の子に、泣いて「学校に行きたくない」といわれてしまいました。
何回かそういうことをいわれたことがあるのですが、その度に内心かなり動揺します。
なぜかというと、わたしの基本的な考えとして、いまの学校のシステムというものが、わたしがこどもの頃経験したのとほとんど変わらない、自由のない、喜びの少ない場所だと捉えているからです。
つまり、こどもが本気で行きたくないならば、こちらも本気で対応する覚悟を持っています。通えそうな距離のフリースクールのリサーチもばっちりしています。ホームスクーリングについても調べています。
なので、そういうことをいわれるたびに、「またまた疲れているんでしょ」とはいわず、真剣に聞きます。
どのくらいの気持ちでいっているのか、もし本当に限界ならば、いまの学校をやめるのか、やめてどうするのか。
いまのところ、自分の存在が揺らぐくらいに真剣につきあっていると、こどもの方が、けろっと別のことを話し始めたり、後から風邪気味で疲れていたことが判明する、とかで結局小学校をやめる事態には至ってはいません。
卒業までに何回もこういうことが起きるのだろうし、そのうちやっぱり小学校をやめることになるかもしれないし、この先のことはわからないのですが。
でもこどもの悩みに、自分の存在が揺らぐくらいの覚悟で真剣に向き合うことは、その後拍子抜けするような事態になるとしても、やはりとても大切だと思うのです。
無駄ではないと思うのです。
そこまでの覚悟で話しを聞くことで、こどもの心がかろうじて救われる、ということもあるんじゃないかとおもいます。
地震の時の高層ビルみたいなイメージで。
たくさん揺れることで、こどものいろいろな思いを吸収できるのなら、それも意味があるんじゃないかとおもいます。
職場の人間関係
仕事といえば、職場の人間関係に心を砕くのが相場です。わたしも結構気を配っているとおもいます。 まあ、日々うまくいったりいかなかったりです。失敗もつきものです。
ただ、そこで大事にしているのは子育てで培った観点です。
- どんなこども(大人)にもいいところがある。この人はいい人、この人は悪い人、とわけるのではなく誰にでも長所と短所があり、特徴をいかにうまく生かして本人もまわりも楽しく生きていけるかが問題。うまくいってないように見える時は、その人のいい部分をどうしたら生かせるか考える。
- それぞれ人は役に立ちたいという気持ちを基本的にもっているはずだから、どの人も自分の力を生かして役に立てるとわかったらきっとうれしいはずだ、という前提で動く。こどもだって自分に見あった内容のお手伝いをきちんとできた時は誇らしげな顔をするのだから。
- それぞれの多様な個性のよいところを生かしあって、生産的に、前向きにプロジェクトを進めることは楽しいことだ、と考え、仕事を苦役だと捉えない。
といったような考えでやっています。
周りの人がすぐに賛同してくれるわけでないし、仕事は辛いもの、会社というシステムには逆らえない、というがっちりした思い込みにとらわれている人もいますが、まずは自分ひとりでもこうした考えを持ち「楽しげに」お仕事していくことで、徐々にまわりも「楽しそうだしうまくいってるからそっちの考えの方がいいかな」と思ってくれるといいなとおもいます。
昔働いていた職場で、風通しよく、自由に仕事ができていた経験も(もちろんいつもいつもではないですが)あるので、そうしたイメージを持てることも大きいかもしれません。
また、新規立ち上げの職場なので、そこで働く人が新しい、フレッシュな気持ちで業務に向き合っていることもあるのかもしれません。
いろいろ困ることも発生し、そのたびにあれこれ動くのですが、いまのところ「変わらない人なんていない」、「時間をかければ大人もいい方に変わっていく」、そうした兆し、手応えは感じています。
はじめての家出
上の子がはじめて「家出」しました。
といってもまだ8歳、かわいいプチ家出で危ないことにはならずよかったです。
このところ、どうでもいいうそをついたり、ぐずぐずすることが多かったのですが、敏感な子なので、クラス替え、担任替えがある4月は毎年こんなもんかと思っていたのです。
ただ、それだけじゃないんだ、8歳から9歳の成長ってすごいんだ、と思わされました。
最近学童に迎えに行くと、ボール遊びで盛り上がっていて、もっと遊びたいから帰りたくないようです。その日も迎えにいったらもっと遊びたいからまだ帰りたくないといいました。
ただ、宿題をきちんとできない日が続いていたので、朝わたしが出勤するまでにその日の朝に提出する分が終わっていなかったら、その日は早めに帰宅して次の宿題をするよ、という約束にしてありました。
なので、その日も朝ちゃんと宿題終わらせてなかったから早く帰ることになっていたのです。
もっと遊びたいというこどもに、約束だから帰るよ、というと、「えーだって朝宿題やったもん」といいはります。「やってなかったじゃん」というと「ママに見せてないけどやった」とかわけのわからないことを、しかもしつこくいってくるので、珍しいことですが、他の親子や学童の職員の前で結構きつく叱りました。
上の子は帰り道泣きながら、ひとりで先に帰って行って、わたしと下の子が家についてみると上の子がいません。
「あれ?」ってなって、下の子に「どこにいったんだろうねえ?」と聞くと、「いつも遊びにいくお店にいるに決まってるよ」といいました。近所の仲良くしている八百屋さんです。学校の行き帰りに必ず通るし、こどものおもちゃや絵本をおいて遊びコーナーも作っているし、わたしがそこで読み聞かせしたりしているので、よくしてくれています。
そこで下の子に頼んで迎えに行ってもらいました。
帰ってくると上の子は「こんどママが怒ったらまた家出してやるから!」と捨て台詞。
ここで初めて発覚したのですが、どうも本人は家出したつもりだった模様。
なんだ、そういうつもりなのだったらもう少し家出させといてやればよかった、と後で思いましたが。
たぶんどらえもんでのびたくんが家出する話を見ていたので、それの影響もあるのかな。
最近わざと悪いとわかっていることをやるなと思っていました。すぐばれるうそついたり。怒られたいの?って感じです。
でも、今回の事件を振り返るに「怒られたい」のですね。そして親から自立したいのですね。
そういう気持ちが芽生えつつある、ということだな、と解釈しました。
初家出おめでとう、といいたい気分です。
それにしても、適切に怒るというのは奥が深いですね。今回もきわどいところでうまくいったとは思いますが、あと一歩でまずい事態になるところだった気もします。
怒ればいい、怒らなければいい、という単純な問題ではないので難しいです。これからも修行は続きそうです。
子どもの非認知能力を育てるには「ていねいな関わり」が大切
時々ご紹介している増田修治さんの新しい記事を発見しました。増田修治さんは小学校教師を28年した後いまは大学で教えてらっしゃるそうですが、こどもにどう寄り添うか、実践の経験を踏まえてよくわかっている方だと思います。
今回の記事も、わたしがとても大事だとおもっていることを書いてらっしゃいます。
「認知能力」とは皆さんがよく知っているように、IQや学業達成など、学力テスト等で測定可能な能力のことを言います。それに対して、「非認知能力」とは、自制心、勤勉性、外交性、協調性などその他の要素のことを言います。例えば、「興味あることを納得するまで調べてみる」とか「自分からさまざまなことにチャレンジしてみる」などといった能力です。今、海外研究を中心に、多くの研究によって「非認知能力」の重要性が指摘されるようになり、「非認知能力」が、「人間の一生を決める!」とさえ言われるようになっています。
なんとわかりやすい説明でしょう。それにしても、測定可能な能力以外の要素とは幅広いですね。
貧困の状態にあっても、学力の高い子どもたちは具体的にどのような面が違っているのでしょうか。学力の高い子どもは、まず「生活習慣や学習習慣が確立している」ということです。起床の習慣、朝御飯をきちんと食べること、自分から宿題をきちんとやることや分からないことを自分から調べるなどのことができているのです。次に、学力の高い子は「思いを伝える力」が高いのです。
こうした力は、子どもとていねいに関わり、子どもの意見を聞きながら、自分の意志で生活や学習の習慣を家庭で決めていくことで育っていきます。ここで強調したいのは、「生活習慣」や「学習習慣」が大切だからといって、親が一方的に決めてしまわないことです。私が何度も言っているように、子どもの意志や考えを尊重しながら、守れることを子どもと一緒に決めていくことが大切なのです。
そうなんですよね。親が一方的に決めてしまうのが一番楽なのですが、そうではなく、子どもの意志や考えを尊重しながら守れることを子どもと一緒に決めていくことが大切、わたしもそう思います。
ただ、それって忍耐力もいるし、時間も手間もかかることなので、あまりこういうことをいっても、「そうそう、そうだよね」なんて反応は返ってきにくいですが。
でも大切なことだとおもいます。
増田さんの記事を紹介するといつも「その通り!」というコメントしか出てきません。ぜひ紹介した記事を読んでみてください。
愛着障害ということば、思春期の親とのぶつかりあい
最近「愛着障害」という言葉を知りました。
親との関係によって、こどもに必要かつ適切な対応が得られなかったときに、こどもが精神の発育、特に人間関係の形成に大切な考え方や対応方法がうまく身につけられなくなる、ということだと理解しています。
これは、わたしと親の場合を考えると、確かにあてはまるなというところもあり、そういう考え方を使うときちんと問題が把握できたり、うまく対応できたりということはあると思います。
でも一方でそのことばに振り回されすぎないように、ということも自分に言い聞かせています。
以前自閉症スペクトラムやアスペルガーという概念を知ったときも、すごく自分にあてはまる点があるなと感じてすごく調べたり悩んだりしたことがありました。
(結局軽度のアスペルガー傾向はあるかもしれないけど、診断がつくほどじゃないんじゃないかというのが自分なりの結論なのですが。)
その経験を踏まえて考えると、自分にはたくさんの欠点もあるし、発達や特性の凸凹もあると思うし、まあ愛着障害的な要素もあるのかもしれないけど、そういうだめなところ、欠けたところをいくら分析して名前をつけても仕方がない部分もあって。
まるごとそういうものを抱えて、だめなところもたくさんあって、でも貢献できるところもたくさんある自分を受け入れて、そのまま生きていくしかない、と感じています。
親との関係でいえば、親にもっとこうしてほしい、こうしてほしかった、ということは数限りなくあるのですが、わたしは思春期にものすごくそれを親にぶつけて、20代はほぼ絶縁ぎりぎりのところまで行ったので、自分的にはそれですっきりしてけりがついたと思っています。そういう意味ではけんかさせてくれるくらいの度量のある親ではあったと思います。
そういう時期を通過することで、親は親でだめなところもあったけど、それなりにわたしを愛して、よかれとおもって必死にやってくれたこともいまは理解できるのです。
だから、わたしもこどもに対して至らない点は多々あるのですが、いままでも誠実に100%全力で向き合ってきたし、これからもだめなところがたくさんあるわたしをまるごと生きることで、こどもにはそれを参考にして自分なりの生き方を作っていってほしいなあ、と考えています。