いろいろな「自分」
こどもの寝顔を見ながら考えていました。そこにある写真立ての4年前のこどもはまるで別人。体格も言動も。
すがたかたちも性質もまるで違うのに同じ人物だと本人もまわりも認識するというのはどういうことなんだろう。
そこに連続するなにか、共通するなにかはなんだろう。
自分のことで考えてみると1才くらいの自分の写真が頭に浮かびます。お菓子をばらまきながら歩いて得意そうに微笑んでいる写真です。その時の記憶はないけれど紛れもなく自分だと感じます。
幼稚園の自分、小学校の自分、中学の自分。引越しや転校が何回かあったので、その時の環境やまわりの人の受け止め方で、自分というものが激変するという自覚はいつもありました。
だから思春期にこんな自分なんていやだ、と落ち込んだ時も、じゃあ変えればいいんだ、と考えて前向きに努力することができた気がします。
それにしても、だめだめな自分も、いい感じの自分もずっとみつめている自分ってなんなんでしょう。
例えば大ピンチの時に、急にお腹にぐっと力が入って、すべきことを着々とこなしていく自分ってどうなっているんだろう。自動操縦モード? じゃあそれは誰が動かしているっていうのでしょう? 自分以外の誰かだとは思えないですけど。
そうかと思えばささいなことでくよくよしたり、いらいらしたり、悩んだりするちっぽけな自分もいる。それも紛れもなく自分自身。きょうも自分の失敗にため息をついています。
人間ってひとりで、小さくて大きいんだなとつくづく感じます。