「間違えたら終わり」という恐怖感
小さい頃親にいわれて仕方なくピアノを習っていましたが、練習も嫌いだったし、とにかく曲を仕上げて弾けるようになるよう訓練する、というスタイルの教え方だったので「間違えちゃだめ!」という嫌な刷り込みばかり受ける感じでそれも苦痛でしたね。
それでバイエルをなんとか終えたところで終了になっているので、わたしのピアノは特技のようなものでは全然ないわけですが、最近ポロポロ自分で勝手に弾くのは時々やるようになりました。
ひさしぶりに譜面を見ると、楽譜が読めない。ト音記号はともかく、ヘ音記号は、この音はなんだ?とすぐに浮かばないのでとりあえず覚えているドミソのところから数える、そこにシャープとかフラットとかが出てくるとさらに考え込む。というところからスタートしましたが、下手でも気にしないで弾いています。逆にそこまでできないと完成度が気にならずピアノで遊ぶ感じでできます。
いらないアップライトピアノをもらってきて調律してもらったのですが、ひさしぶりに聞く調律したての生のピアノの音はとてもすばらしく、鍵盤をたたくだけでしばらくうっとりしていました。
そもそもピアノというと譜面見て曲を奏でるってことに自分の中ではなっていたのですが、別にそうじゃなくてもいいんだ、という発見があります。
でたらめに弾いて、この和音すてきだなーとか逆にこの組み合わせはへんな響きだなーとか、そういう楽しみ方もあると、いまさら気づきました。
わたしの場合、時々ピアノをいじりたくなるとか、わけのわからない抽象画を眺めたくなるというのは、ことばを読んだり書いたりしていると、あたまが論理的になりすぎるというか、正論できちきちになってちょっと疲れてくるというのがあって、そんな時に風通しをよくしてくれるものです。
ピアノをしていても、ついうっかり曲を仕上げなきゃというモードに入ってしまっている時は、間違った音を響かせた瞬間「うわーやっちゃった!」と胸が締め付けられるような気持ちになります。
これって、ピアノのレッスンでも、学校教育の現場でもよくある感じだとおもうのですが。「間違ったらおわり!」みたいな恐怖感が蔓延している場所ってありますよね。
でもそれだと萎縮しちゃって、全然楽しくないし、本来の自分の良さも発揮できないのですよね。
最近それに気づいたので、なるべく違うモードで弾くようにしています。間違いを楽しむ、間違いと仲良くなる、みたいな。
そうすると、へんな和音が響いた瞬間「あれ?」と思うのですが「ああここは違うんだ」と気づいてただ直すという感じで、胸のキューもなければ身の縮まるような思いもありません。
そうすると、弾くことが恐怖ではないし、間違ってもどんどん弾きたくなるし、だからたぶんトータルとして練習量は増えて、ほんの少しずつでも上達はしているのかなとおもいます。
また、作曲とか創造する方につながっていくためにも、楽しく弾くことは大事かと考えています。
こどもも、そんな親の姿を見て、時々ピアノに向かって遊んでいるので、そういう意味でもよい感じかなーとおもっています。