魂の深いところにおりる
こうして自分がいつもやっていることをことばにしようとすると、とても困ります。なぜならわたしの場合直観で動くことが多いので、説明するのが難しいのです。あまり考えてない、というのでしょうか。
でもひとついえるのは、考えに考えて、悩みに悩んであまり頭でっかちになって選択を間違えることもあるし、自分の奧からわいてくる直観を信じて動けるのであれば、それはとてもいいことなんじゃないかなとおもいます。楽ですしね。
結果に関しては、まあ考えても、考えなくても、うまくいったりいかなかったりなので、直観でやればなんでもうまくいく、なんて単純な話しではないとおもうのですが。
もちろんいい結果が出ることは誰にとってもうれしいことだし、そうなれば一番なのですが、よい結果にあまり固執してしまうと、直観の世界からは離れてしまいます。
直観がやってくる源はわたしが思うに、魂とか自分の本当の中心とかのところだとおもうのです。そこは、現実世界とは逆さまといってもいいほど、価値観の違うところです。
現実世界で日頃わたしたちは、少しでも得したい、とか少しでも成功したい、とか外見が整ってて異性にもてるのがいいことだ、とかお金があって素敵な家や車を持つことはいいことだ、とかそういう価値観の中で生きています。
たしかに、人間というちっぽけな生物として生きていくには食べ物、寝る場所、などなどを手に入れて、ある程度たくましく生き抜く必要があります。そのの延長上にそういう価値観があるのは仕方ないともいえます。
でも、例えば幸せに生きたい、心の底から幸せを感じるにはどうしたらいいだろう?とか、子育てをしていて、この子とわたし(親)にとって一番いい道はどれだろう?などと考えるには、心の深い部分を使う方がうまくいくのではないかとおもうのです。
それは心理学者の河合隼雄さんの本や、優れた児童文学などを読むと出会える世界です。
それは、問題や悩みにぶちあたった時に辛いと感じながらも苦しみながらも「あ、もしかしてこれでよかったのかもしれない。新しい局面が開けるチャンスかもしれない。」と感じる感性でもあります。
そこでは得することはまったく意味がなく…見栄をはって他人より自分をよく見せることにはまったく意味がなく…
無様でかっこわるくて、情けない目にあった時こそ宝物を手に入れるチャンスに巡りあえるところなのです。
もしいま辛いな、苦しいな、孤独だな、と思ってらっしゃる方がいたら、苦しみながらもそこでじっとしてみていただきたいとおもいます。その時こそ自分の奧から深い知恵がやってくる時であり、深い魂の変容が起きる時であり、人生がひっくり返るほどのターニングポイントかもしれません。
人生で試煉にぶちあたった時、つい現実の価値観で考えると、大変な目にあう自分はついてない、とかあの人はなんでもうまくいっててうらやましい、とか考えがちですが、試煉にあった時はもう仕方ないのでそういう考え方はさっさと捨てた方が楽だとおもいます。
試煉にあった時というのは変容のチャンスなのですから。