どうして拡充学習をしようとおもったか
「才能」ということばについて考えていて、なぜ拡充学習というものに興味を持ったかの話しを書きたくなりました。
あまりこのブログでは詳細に書き記したりしていませんが、うちのこどもたちは、世間の多数のこどもたちとは少し違うな、というところがあります。それはごくごく微妙な感じで、いまのところ幼稚園や学校の先生に問題にされたこともありませんし、なにか診断がついたこともありません。(もちろんよく見ればどのこどもも他の子とは違いますが…。)
日頃困るなとか配慮が必要だなと思うのは、こどもたちの持っている「敏感さ」です。とにかくささいなことに反応してショックを受けたり悲しくなったり固まってしまったりすることがあります。
なのでいちいちブログには書いていないのですが、日頃結構気を使っているし、まめに本人たちの話しを聞いたり、フォローしたりしています。学校についても悩むことは多いです。フリースクールについて真剣に情報収集することもあります。発達障害についてもものすごく本を読んだりして勉強しています。
それで、いままでは目の前のことに対応するのに精一杯だったこともあるし、こどもが困っていることをなんとかしてあげよう、楽しくなるようになにか工夫しよう、というスタンスがメインになっていました。
また、上の子が小学校に上がり、宿題をいやがるのでそれにおつきあいするのにものすごく時間とエネルギーをとられて、あまり家では実験とか工作とか自由遊びができないこの1年でした。
ある時ふと、受身に困ったことに対応するだけじゃなく、もっと攻めの姿勢が必要じゃないの?とおもったんですね。
自分が無意識に不得意なところをなんとかして社会に適応するには、という発想になっていたんじゃないかとおもいました。
そのためにできることのひとつは、よいところを伸ばしていって、他の人にはできないようなことで社会に役立てるようになればいいんじゃないか? そうすれば多少枠からはみ出しているところは問題なくなるはず。
それはなにもノーベル賞をとるような科学者を育てようとかそういう壮大な話しじゃなくていいとおもうんです。
適材適所的な発想で個性にあった職業を見つける、くらいのことかもしれないけど。
この子は気がきくから接客業が向いてるかな、この子はもしかして染織職人になったらいいかも、くらいのことかもしれないけど。
でも、自分が得意で、やっていてなんの苦痛もなく、そして直接でも間接でも誰かの役に立って喜んでもらえる。
そういうことがあれば、幸せに仕事をして生きていけるし、そして役に立つことで対価を得て、仕事をして自立していくことができます。
よく、スーパーのレジ打ちとかコンビニのバイトとか皿洗いとかなんでもやって生きていけばいいじゃない、という言い方をする方がおられます。その通りと思う一方で、そうした仕事に必要な実務の適性がまったくないわたしは、自分に適した仕事を見つけて、それにつくための準備が大切とも思います。
また、他の人に代替可能な仕事ではなく、その人にしかできないことで社会に貢献できれば、より自由に仕事のやり方や環境を調整することもできるようになります。必要とされれば、大事にしてもらえるということです。場合によったら不登校の経験があったり学歴がなくてもです。ブラックな環境で我慢しながら働かなくても済むことにもつながります。
平たくいえば、違うことを苦にしながら生きる生き方から、違うことで人の役に立ち、違うことを価値にして、他人に感謝してもらって幸せに生きる生き方に転換する、というのでしょうか。
そうした中で拡充学習に出会ったのですね。
拡充学習は限られた人のものではなく、すべての人を対象としたものです。
また個別に合わせていくことが大事なのです。
「楽しみ」をキーワードにしているので、本人の意思を無視して押し付けることなく、自主的に発展させていけます。
そうしたところがとてもひきつけられました。また以前から注目していた虹色教室が、実は拡充学習を目指して活動されていたこともわかり、自分の中でなにかがつながった気がしました。目の前の分類不能なこどもたちを、無理に分類、ラベル付けすることなく、ただそのままおもしろがることをやらせ、その子にあったやり方でそれを発展させていけばいいのです。
いまレンズーリの「創造的生産者」についての記事を書いていてなかなかまとまらないのですが、そこにも話しがつながっていく予定です。