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読書をしながら、子育てしながら、お仕事しながら、人間の内面についていろいろ考えたりする毎日

勉強人と学習人

五味太郎さんのこちらの本を読んでおもしろかったことです。

勉強しなければだいじょうぶ改訂版

勉強しなければだいじょうぶ改訂版

 

 「勉強」ということばにひっかかりがあると語る五味さん。勉強を辞書で引くとその意味は無理にでも努力して励むこと。

 

ここの風土は基本的にそうですよね。つらいことをすれば幸せになれるっていう考えね。変なの。

 

それに対して、学ぶ、学習する、というのはまったく違うものだと。

 

ー学習という言葉が出ましたが、勉強と学習とは、違うのですか?

違います、違います、ぜんぜん違います。「学ぶ」というのは、どう考えたって自動詞です。空海さんが学ぶ。僕が学ぶ。ようこさんが学ぶ。学ぶ主体があるのですね。「習う」というのは、僕が興味あることについて、僕がたどる、沿う、真似る。習いながらアレンジメントしていく、つまり再構成していく。そのときに、沿いきれないものがたくさんでてくる、それが個人のさらなる学習作業です。

 

 勉強という言葉自体、「勉強させる」「勉強させられる」というニュアンスなのね、つまり個人的必然のないままに、ということです。聖徳太子に興味がないまま十七条の憲法なわけです。そのうち興味が湧くであろう、湧いてもらわねば困る、という具合。なかなか湧くもんじゃないのね、そんなことに。でも試験なのさ。だから仕方なく憶えるの、十六条の憲法なんて書いたら×さ。

 

おもしろくて全文引用したくなりますが、我慢して、話は先へ進み、「勉強する人」と「学習する人」の違いに発展します。

 

ー馬鹿というのは、勉強できない人という意味ですか?

学習できない人のこと、勉強しかできない人を馬鹿っていうの。

ーこなす人?

対応するのに努力している人、対応力だけがついた人。だって十数年間もその訓練だけ真面目にやってきたんだもの、勉強していれば、ある程度一般教養が身について、まあまあの大人になったつもりでいるというのが馬鹿なんですよ、だからたとえば「何故そうなるのですか?」なんて質問されたりすると、「いやあ、そういうことになっているんですよね」なんて答えるしかないような......

 

とくに学校的な勉強はできなくても反応できる人というのは、学習する人なんです。わからなければ学習すればいいと考えられる人なのです、大人ぶらなくてもいい人です。

ずっと勉強ばかりしてきた人は、当然現世に反応できにくい、子供に対して言うことがないんです。で「せめて高校までは出てくれ......」とか「それができないのならオレは知らん、家を出て行け!」なんてキレたりするわけです。めちゃくちゃです。でもあまりにもよくあるパターンだね。そしてやがて生来の学習人が勉強人化してゆくわけです。気の毒なことに。かわいそうに。

 

 勉強、学習ということばに関連付けて考えたことはなかったですが、わたしもいままでここで勉強人と表現されるような「思考停止した人」問題についてはつらつらと考えていたのですよね。自分のやりたいを押し殺して、こうすべきことを義務でやっていった結果、自分がなにをどう感じているか、わからなくなっている人。自分の頭で考えることをやめてしまった人。そういう人ってたしかに即座の反応が鈍いです。そして素の自分で勝負することが苦手です。どの人もみなあまり楽しそうでない。重い感じ。軽やかでない。

 

いまこの瞬間の状況に瞬発的に反応するっていうのが一番的を得た対応だとすると、思考停止した人には、まずいまの状況(例えば目の前の子供の状態)が把握できにくい、目や耳から入って行きにくい、そしてちょっとずれた対応になっていく、というのがわたしの印象です。その人なりに一生懸命なんだけど、ずれにずれが重なってうまく行きにくい、成功率が低いというか。人間関係やコミュニケーションとして考えても、相手としてはやはりいまこの瞬間のわたしを見てくれない、反応してくれないと感じるでしょうから、うまく行きにくいのではないかとおもいます。

 

なのでこの文章にも共感。

今、勉強人が主流であることは間違いなく、その人々が作り上げてきた社会があちらこちらで破綻してきているということです。つまり勉強人じゃ無理なのよねえ、という感じに満ちているわけです、世界的に。勉強人が作る社会は脆いのよね、危ういのよね、つまらないのよね、息苦しいのよね、と学習人が言い始めているわけです。

 

いまは過渡期な感じですよね。不安を煽っておもしろがったり儲けたりする人もいますが、「反応できる人」ならば、変化に瞬時に対応出来るので心配ないとおもうのです。もしかしたら「思考停止している人」「こなすだけになっている人」には厳しい局面かもしれません。でもそれは、そういう人が自分を見つめ直すチャンスなんじゃないかなとも思うんです。

 

きっときっぱり2つに分けるこういう言い方はわかりやすいけど、自分の中でも反応できる時もあれば、思考停止している時もあると思うので、実際にはその中間のグレーな段階がたくさんある気がします。

 

自分でも時々こういうことを意識していたいです。