無上の喜びを追求して生きるということ その2
無上の喜びを追い求めなさいとジョーゼフ・キャンベルという人がいっている、という話の続きでした。
また、一生のうち一度もやりたいことをしたことがない、と話す父親のエピソードが出てきました。楽しむということ、喜びを追い求めることが自分の中でタブーとなってしまっていて、まるで楽しめないという人も世の中には昔から現代に至るまで無数に存在している、ということです。
現代でもたくさんの人が、心の底では喜びを追い求めて生きたい、と思いながら、「そんなことは不可能だ」という思い込みに縛られてあきらめてしまったり、恐怖にコントロールされて、なぜか辛い人生にフォーカスして生きてしまったり、ということはたくさんあるとおもいます。
それでは無上の喜びを追い求めるとはどんなことでしょうか?
例えばそれは、宝くじがあたることを夢みる、とかそんなことではないですよね。
そうした、刹那の幸運というものは、人生に存在するけれど、長続きするものではない、ということはすぐにみなさん考えつくのではないでしょうか。
不運、幸運が折り重なる人生で、いつでも心を落ち着けて静かに微笑むような態度で生きていくにはなにが必要でしょうか?
ジョーゼフ・キャンベルは、まさにそこで無上の喜びを追い求めることが必要だ、といっています。
キャンベル 無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まあ考えてごらんなさいーなんという人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。きみたちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。
モイヤーズ 自分の幸福を追求すると、どうなるのでしょう。
キャンベル 無上の喜びに行き着く。中世のいろんなものによく出てくるイメージに運命の輪があります。中心の軸と、その周りを回転する円からできている。
例えば、もしあなたが運命の輪の中に取りついたとすると、あなたは頂点から下がるか、底辺から上がっていくかのどちらかです。でももし軸に取りついたなら、常に同じ位置にいる。
結婚の誓いの意味はそれですね。健やかなときも病めるときも、豊かな時も貧しいときも、つまり上昇するときも下降するときも、あなたと共にいる。あなたは私の中心であり、私にとって無上の喜びである。あなたが私にもたらすかもしれない富ではなく、社会的地位でもなく、あなた自身が至福なのだ、無上の喜びを追求するとは、こういうことです。
幸運な出来事があれば舞い上がり、不運に見舞われれば絶望する、というように輪の外側を上がったり下がったり、というのが普通の人のやり方だとすれば、輪の中心の部分に常にいること、それが無上の喜びを追い求めるという生き方だ、というのです。
他人から見れば苦難、不遇としか見えない状況でも、自分の無上の喜びを追い求めていれば幸せにすら感じることができる、ということです。(もちろん生きていくための最低限の衣食住を確保することは前提としてですが)
芸術家や研究者などのインタビューで、好きなことをしている時は努力も努力に感じない、苦難も苦難と感じない、というエピソードを聞くことがありませんか?
好きなことをやっている時、その情熱に導かれるままに行動している時は、他人から見るとびっくりするようなことを知らず知らずのうちにやってのけていることがあるものです。
続きます。
- 作者: ジョーゼフキャンベル,ビルモイヤーズ,飛田茂雄
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