専業主婦・専業母の「虚しさ」の正体
今週わが家をインフルエンザの猛威が襲い、病児保育などのアレンジもうまくいかず、久しぶりに平日に休みを取り、出席停止期間で幼稚園や学校に行けないこどもたちを見ていました。病気といっても本人たちは熱は下がって元気なので、普通に遊んで、宿題させて、時間にごはんを食べさせて、という専業主婦ならあたりまえの1日でした。
このところ平日昼間は仕事に出ていたので、それに比べてみると、家にいれば、他人の目を気にすることもないし、時間のやりくりもある程度自分の裁量でできるし、こどもと遊ぶのも楽しいし、たまにするには楽しい時間ともいえます。
でも、専業主婦をしている時に感じるなんともいえないやりきれなさというものも確かにある(あった)と感じました。
例えば、人は得意なことをすればいいのだ、それに対価を払ってもらえることも払ってもらえないこともあるけど、無報酬だからといってその仕事の価値がないというわけではない、必要とされる仕事はすべて尊い、といわれればその通りだと思います。育児の他にも介護とか病人の看病とかいろいろあるでしょう。
例えば家事が得意な人もいて、それで本人が楽しくやっていけるならまあ確かに何の問題もないし素晴らしいなと思います。お料理の工夫をするのが好きとか、お客様をよんでおもてなしするのが好きとか...。
ただ、じゃあ今までわたしの感じていたやりきれなさはなんだったんだろうとふと考えます。
基本的にこどもは好きだし、こどもと遊んだりするのは楽しいです。ただ、家事はそんなに得意じゃないし、そこまで時間をかけてやることに意義は感じないタイプです。だから専業主婦としてなにか評価されるようなものは持ち合わせてないです。
それに専業主婦といいつつ、家事は結構家族がやってくれています。
家事や育児のどちらか、または両方得意、仕事が得意、いろいろバランスよくできるとかさまざまな人間のタイプがあるし、あって当然ですよね。
まあわたしはどちらかといえば仕事で受ける評価の方が、家事で受ける評価より高いのかもしれません。
そう考えると人間ってやっぱりなんかいい評価を得たいという気持ちがあるということなんですね。きっと。
なんかやっぱほめられたい。そういうことかと。
自分はよくやってるなとおもうし、友人や家族はねぎらってくれるけれども、それだけじゃなく第三者から評価されたい、役に立ってるという実感が欲しいと。
日本の社会全体の風潮として、高度経済成長期が終わった後も、みなが過労気味で余裕がなく、ぎすぎすしていて、家事や子育てという無償の尊い行為を尊重する気持ちを持てないということも大きいと思います。
アジアに滞在していた友人に聞くと、子供連れだとみんなが優しくしてくれる、優先してくれる、といいます。それが日本ではまったく見られないとも。
専業主婦というのは、高度経済成長期に働きすぎるほど働くサラリーマンをサポートする機能として有効だったわけですが、専業主婦という形態自体、明治以降に確立されたものだとこないだ雑誌の記事で読みました。
日本はこれから低成長期の時代です。
専業主婦を尊重できないのであれば、せめて夫婦共働きやシングル子育て、などいろいろな働き方もあることを前提として、それでも家事育児や豊かな生活が成り立つように社会の仕組みを変えた方がいいですよね。
まずは社会全体で、専業主婦に甘えてきたことをよくよく嚙みしめる必要があるのではないかと思いました。
仕事と自分という観点でいままでを振り返ってみると、ぼーっと夢見がちに生きていた高校生、大学生時代に、いろいろ魂を揺さぶられるようなことが起き、強制的に現実に立ち向かわざるをえない状況になり、やはり自分で食扶持を稼いで経済的に自立しないとこの世界では発言権もないのだと痛感し、一転就職しバリバリ男並みに働いた20代。
男並みに働くということが、なんて功利主義で、権力闘争だらけで、生活を楽しめる余裕もないほど働きづめなのかということを身を持って知り、体を壊して退職し、その後結婚して専業主婦時代に突入、自分探し時代を経て妊娠、出産して、生まれつきの繊細さを持ちなかなか難易度の高い子どもに200%つきあった時代を経験して今に至るわけですが、どこにも100%はフィットしない自分がいました。
そう考えると、こどもの教育について深い話ができる仲間を得て、家庭のことやこどものこともしながら、仕事もできるいまの環境は、ちょっと忙しいけどすごく自分に合ってるのかなという気もします。
なんだかんだいってありがたい話ですね。