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農業が子育ての、そして生き方のスタイルを変えた その3

農業は、私有地、階級的格差、そして狩猟採集民の社会に広がっていた平等とは全く違った条件も提供していました。

狩猟採集民は、得られる獲物や食べられる植物を探して動き続けていたので、土地や自分たちが持てるもの以外の有形財を持つことにはまったく経済的価値がありませんでした。それとは対照的に、農民の家族は自分の土地の権利を主張し、守らなければなりません。わざわざ耕したり、植えたり、栽培したりしたのですから、そこに他の誰かがやってきて、収穫をさせるわけにはいきません。

また、定住性の暮らしによって、食料を貯蔵したり、他の有形財を貯めたりすることもできました。このことによって身分の差が生まれたのでした。より多くの土地やものを所有した農民の家族が、より裕福になるのです。彼らは、より多くの子どもを養うことができ、その子らはより多くの遺産と高い地位を相続することができたのです。そのことはさらに結婚相手を惹きつけたり、(多くの子どもたちや使用人によって)自分たちの土地に杭を立てて仕切ったりするのに役立ちました。

結果的に、農業は狩猟採集民が受け入れることのなかった価値観を拡大させていったのです。それには、骨折り仕事、子どもの労働、私有財産、強欲、地位、競争が含まれます。

 

 

農業中心の暮らしがもたらした新たな価値観には骨折り仕事、子どもの労働、私有財産、強欲、地位、競争など、現代社会の問題となるものがすべて含まれています。

 

わたしたちはこうしたことが問題だとはおもっていたものの、それがまさか農業中心の暮らし由来の価値観だとは思ってもみませんでした。いままでは。

 

でも、原因がわかったいまは、そうでない生き方をすればいい、という新たな光が見えてきたような気がしています。

 

 

農業が子育ての、そして生き方のスタイルを変えた その2

文化人類学者のマーシャル・サーリンズが狩猟採集民の社会を「最初の豊かな社会」と呼んだことは有名です。彼らはたくさんのものを持っていたからではなくて、彼らのニーズがあまりにも少なかったため、豊かなのです。

 

彼らは少ないニーズを比較的少ない仕事で満たすことができました。結果的にたくさんの自由時間を持っていました。その時間を「歌ったり、歌を作曲したり、楽器を演奏したり、複雑なビーズのデザインを縫ったり、物語を語ったり、ゲームをして遊んだり、他のバンドを訪ねたり、横になったり、休んだり」して過ごしたのです。これらの活動は生活に満足している人ならどこでもしていることです。

 

環境問題や地球温暖化の問題が叫ばれて久しいですが、地球上の人類が狩猟採集民的な生き方に移行すれば、あっという間に解決しそうです。

 

また、ものがありすぎて断捨離だとかミニマリズムということもいわれていますが、狩猟採集民的生き方はそんな時代にまさにぴったりです。

 

農業が、徐々にこれらをすべて変えたのです。安定的な食料供給は、人々により多くの子どもをもつことも可能にしました。農業は、放浪の民として暮らすのではなく、自分たちが育てている作物の近くに定住することを可能にしました(というよりも、強制しました。)

 

しかしながら、この変化はより長い時間を労働に費やさなければならないというコストを伴っていたのです、狩猟採集民は自然が育ててくれたものを巧みに収穫したのに対して、農民は耕して、植えて、栽培したり、家畜の世話をしたりなどしなければならなくなりました。

 

農業で成功するには、長時間の比較的熟練を要しない、繰り返しの作業が要求されるのです。それらのほとんどは子どもでもできるものです。家族も大きくなったので、子どもたちは若い兄弟たちを食べさせるために畑で働いたり、家でその子たちの世話をしたりするようになりました。子どもたちの生活は徐々に、自分自身の興味関心を自由に追求することから、家族の手助けとなる仕事をする時間に移行しました。

 

 農業で必要とされるのは長時間の繰り返しの作業、しかも熟練の必要がないものだったのですね。これが産業革命後の工場での労働や、いまでいうマックジョブというだれでもできるような仕事のルーツとなっていそうです。

 

そして、ここで注目すべきは、こどもたちの生活の変化ですね。いままで自分自身の興味関心を自由に追求する毎日を送っていたのに家族のために労働するようになっていったのです。

 

農業が子育ての、そして生き方のスタイルを変えた その1

農業は、人々の暮らしにたくさんの改善を提供してくれました。より安定的な食糧供給を実現し、その結果、飢えの脅威を、少なくとも当初は、減らしました、農業は、食料を探して移動する必要性をなくし、人々が定住できるようにして、丈夫な家を建て自分たちを肉食動物や嵐から守ることを可能しました。しかしながら、農業には高い値札もついていました。そのコスト面は、狩猟採集から元に戻ることはできない最初のステップを歩みだした人たちには予想できなかったことでした。農業は、人間の暮らしの条件を根本的に変えることで、自由、平等、共有すること、遊びなどを減少させたのです。(中略)そこでは、遊ぶことではなく、骨を折って働くことがもっとも大事にされるのです。

 

農業はとてもいいもののはずでした。だから皆が取り入れたのですが、農業中心の暮らしをすることによって、いつのまにか自由や平等、共有の概念や遊びが少なくなっていたのです。それは今に至るまで続いていて、わたしも含めて人々はそのことに無自覚です。

 

「骨を折って働くことがもっとも大事にされる」と聞いて、なるほど!とおもいあたる不思議な慣習が身の回りにたくさんあります。たとえばやたらと長時間残業するサラリーマン。たとえば、わざわざ仕事を増やしているのではないかとさえ思われる非効率な学校のPTAなどなど。

 

狩猟採集民の生活は、知識集約的で技術集約的でしたが、労働集約的ではありませんでした。すぐれたハンターと採集する人になるには、自分たちが依存している植物や動物と、自分たちの食料をあさる地形についての深い知識を身につける必要があります。彼らは、狩りや採集の道具を作ったり、使いこなしたりするのに卓越した技術を身につけなければなりません。また、食料を見つけるのに、獲物を追うのに、そして肉食動物から身を守るために創造的でなくてはなりません。

 

でも、彼らは長い時間働く必要はありません、それどころか、長い時間を狩りや採集に費やすのは逆効果です。そうすることは、自然の再生能力を超えて食料を捕獲したり、収穫してしまうことを意味するからです。

 

さらに加えると、狩りと採集の仕事は、部分的にはそれが知識集約的で技術集約的なので、ワクワクして楽しいものでした。文化人類学者は、狩猟採集民は我々のように仕事と遊びを分けることはないと報告しています。彼らは、狩りと採集を遊びながらして育ち、徐々に本物に移行しますが、その際も「遊び心」は失いません。彼らには骨を折って働くという仕事の捉え方は存在しないのです。

遊び心を持って、創造的に状況に対処する。長時間は働かない。といったスタイルがとても素晴らしいと思います。そして、これからの時代にとても合ったスタイルなのではないでしょうか。

 

狩猟採集民の寛大さと信頼にあふれた子育て

狩猟採集民の社会で、親がこどもに対してどんな態度で子育てしているか、という部分を紹介します。

 

先の記事で紹介した狩猟採集民の「平等」「自律」という考え方はこどもとの接し方にも応用され、それは「信頼にあふれた」ということばで表されます。

 

子育てと教育観の中心となる信条は、

 

◉子供の生まれ持った才能を信じる

◉自分の意思に従って行動できるようにすれば、子供は学ぶべきことを学ぶ

◉子供がスキルを身につけ、十分に成熟した段階で、子供は自然にバンドの経済的活動に貢献し始める

 

というものです。

 

 現代の子育てでも感じることですが、大人が普段持っている考え方、理念といったものがそのまま子育てに反映されるのですよね。

 

だから、子育てだけ取り上げてどうのこうのいうのは、少し違うのかな、という思いは以前から持っていました。大人がまっとうに毎日を生きて、その延長でこどもに接していれば、それほど間違ったことにならないんじゃないかと。

 

とにかく、ここに紹介している価値観では、大人が干渉しなければ、こどもは自分が本来持っている力を使って自分で自分を教育していき、十分に成熟すれば仕事を始めて社会に貢献し始める、ということです。

 

次に紹介するのは、狩猟採集民の子育てに関する研究者のコメントです。

 

◉狩猟採集民は子どもに命令することはない。たとえば、寝る時間を知らせる大人はいない。夜、子供たちは疲れて眠くなるまで大人たちの周りにいる。(中略)ブラジルのパラカナの大人たちが、子供たちの生活に干渉することはない、大人たちは、子供をたたいたり、叱ったり、肉体的にはもちろん言葉によっても攻撃的に接することもない、あるいは、褒めたり、子供の成長の経過を追ったりするようなこともしない。

 

◉(ベネズエラのイエクアナには)これは「私の子ども」あるいは「あなたの子ども」という考え方が存在しない。その子が何歳だろうと、他人が何をすべきかを決めるということはイエクアナの言葉にはない。他の人が何をするかということには大きな関心を寄せるが、それに影響を与えようとする欲求はない。ましてや力ずくで、何かをさせようとは思わない。子供の意思が自分を動かす原動力である。

 

◉(カナダのイヌイットの)幼児や子供は、自分の肉体的な能力が許す範囲で、身の回りの環境を探索することを許されている。従って、もし子どもが何か危険なものを拾ったとしても、親は一般的に子供が気の済むまで探求させている。子供は自分がしていることを理解しているとみなされている。

 

◉(アフリカのカラハリ砂漠の)ジュホアンシの子どもたちはほとんど泣くことがない、たぶん、何も泣くことがないからと思われる。怒鳴られたり、平手打ちにされたり、体罰を受けたりする子は当然いないが、叱られたりする子も見たことがない。思春期が近づくまで、やる気をそぐような言葉を聞くこともほとんどない、非難も(それが本当に非難であっても)、とても柔和な声で言われる。

 

 

さて、現代で子育てするわたしたちがこういったエピソードを聞いてまず感じる不安は「え?それでうまくいくの?」ということですね。怒らなくていいならそれが一番だけれど、それでいい子に育つのかしら?と。

 

私たちの社会の多くの人にとって、以上のように子どもの欲するままにさせることは、大人になってからも甘えたり、要求ばかりしたりする子どもを作り出すための原因になると捉えられかねません。

 

しかしながら、少なくとも狩猟採集民の暮らしの視点からするとその反応はまるで見当違いです。次に紹介するのは、ジュホアンシを調査した最初の1人だったエリザベス・マーシャル店トーマスが甘やかすことについて反応した内容です。

 

そんなに優しく子どもに接したら、甘やかしてしまうと言われがちだが、そのように言う人は、そのやり方がどれだけ成功しているかを知らないのである。欲求不満や不安から自由で、快活で、協力的な(中略)ジュホアンシの子どもたちは、すべての親にとっての夢である。どんな社会も、これに勝る子育てをしたところはない、ここの子どもたちは、賢明で、感じがよく、自信を持っている。

 

 

 この寛大で、信頼にあふれた態度を前提にするならば、狩猟採集社会の子どもたちがほとんどの時間を自由に遊んだり、探索したりすることを許されていることは驚くには足りません。狩猟採集民の大人たちがもっている一般的な考え方は、「子どもは自主的な遊びと探索を通して、自らを教育する」というものです。

 

狩猟採集社会の大人たちは、子どもの教育を管理したり、指示したり、動機付けをしたりすることは一切ありませんが、子どもの望みに応える形で子どもの自己教育を支援します。たとえナイフや斧など、それが危険を及ぼす可能性があっても、子どもに大人の道具で遊ばせることを許します。こどもがそれらを使いこなせるようにならなければならないことを知っているからです。

子どもが大人に何かをして見せたり、助けてくれるように頼んだりしたときは、大人は願いをかなえてやります。狩猟採集民の研究者の1人は次のようにいっています、「共有したり、与えたりすることは彼らの中核的な価値観なので、ある個人が知っていることは、他のみんなにオープンであり、提供されるのです。もし子どもが何かを学びたければ、他の人は知識やスキルを共有してあげるのです。

 

狩猟採集民のこどもは自分の教育は自分でするのですが、バンドの大人たち全員と、他の子どもたちもが、常に助けてくれる存在なのです。 

 

狩猟採集民の社会では、大人はこどもになにか教え込むことはなく、こどもが自主的な遊びや探索を通して自らを教育していき、大人はそれをサポートしていく、ということです。

 

狩猟採集民の考える「平等」

狩猟採集民は小さなバンド(通常は、こどもを含めて20人から50人くらい)で、広大な範囲をもつ土地を、得られる獲物と植物を探して場所から場所へと移動しながら生活しています。彼らのことを調査したほとんどの研究者が言及する彼らの角となる社会的価値は、「自律(個人的自由)」「共有」そして「平等」です。近代的な民主的社会に生きるわたし達も、一般的にはこれらの価値をもっていますが、狩猟採集民のこれらに対する理解と重きの置き方は私たちのとは比べ物になりません。

 

自律というのは、ひとことでいうと他人にあれこれ指図しない、ということのようです。例えば、誰かになにかするように言うことは控える、おせっかいな忠告もしない、など。狩猟採集民がこどもに対して「信頼にあふれる子育て」をすることの基盤はここにあります。

 

子どもを含めて、誰もが自分の選択が他人の自由や社会的なタブーを犯さない限り、毎日何をするかは自分の判断で決めます。しかしながら、自律の中に私有財産を蓄積したり、他人に借金を背負わせたりする権利は含まれていません。それらは、2番目に大切な価値である共有と反してしまうからです。

 

経済的な観点から見ると、共有することこそが、狩猟採集民のバンドの目的と言えます。人々は、食料を獲得したり、肉食動物から身を守ったり、子育てをしたりするのを協力してやるために、スキルと努力を惜しみなく共有します。彼らは、食料やものはバンドの者とはもちろん、他のバンドの人たちとさえ共有します。そのように喜んで共有することこそが、狩猟採集民を厳しい環境の中で、長きにわたって生き延びさせた理由なのです。(中略)狩猟採集民にとって、共有は気前のよさでも潜在的な取引の要素もありません。単純に、義務なのです、他の人よりも多くを持っていた場合は共有することは当然のこととされており、それをしなかった場合は冷やかされたり、軽蔑されたりするのです。

 

わたしの中に共有という価値観はすごくあります。みんなで共有していいものを作っていこう、とか、地域で子育てしていこう、とか、共有すれば誰もにとっていい結果が得られるはずです。でも、ひとりでも自分だけが得しようと考えるとこのシステムはうまくいきませんね。

 

狩猟採集民の自律と共有の捉え方と密接に関係するのが、文化人類学者のリチャード・リーが「断固たる平等主義」と呼んだものです。それは、私たち近代西洋の「機会均等」という考え方をはるかに超えたものです。それは、誰のニーズも同じように大切で、誰かが他のものよりもすぐれていると思われることはなく、誰もが他の誰かよりもたくさんのものを持っていることはない、という意味です。このような平等は、彼らの自律の感覚の一部なのです、つまり、不平等だと、たくさん持っているものや、自分がすぐれていると思っているものが、少ししか持っていない者を支配してしまうことになりかねないからです。

 

いま日本で「平等」というと、悪しき平等主義が連想されますが、狩猟採集民の考える「平等」はかなり違うことがわかっていただけるかとおもいます。

 

もちろん、狩猟採集民も中にはいいハンターや植物を採集する人、いい交渉ができる人、いいダンスが踊れる人などがいることは認識しており、それらのスキルには価値を置いています、それでも、彼らは、能力を見せびらかしたり、自分の優位性をあからさまに表したりすることは強く非難します。

 

戦で使われる武器を自慢したり、共有しなかったり、タブーを犯したりしたときは、冷笑されたり、嫌われたりします。最初の段階では、不適切な行動をとった者を物笑いの種にします。誰かさんは自分が「えらい人」だとか、「素晴らしいハンター」だと思い込んでいるよ、というような歌を作るかもしれません。

 

もし不適切な行動が続く場合は、次の段階として、その者が存在しないがごとく扱います。そのような対処法は、違反者を正気づかせるには極めて効果的です。みんなに笑いものにされるので、偉そうに虚勢をはることは困難です。また、もし食料を溜め込むことの代償がみんなに無視されることなら、それをすることに価値はありません。

 

みなでこうした平等の価値観を共有していれば、1人2人、そこから逸脱する人が出ても、無法地帯になったりはしないということがわかります。

 

狩猟採集民のこどもの1日

ピーター・グレイ著「遊びが学びに欠かせないわけ」より、まずは狩猟採集民のこどもたちの1日の過ごし方の描写を引用します。

 

アフリカのカラハリ砂漠で狩猟と採集をしているバンドの中で暮しているクウィという11歳の男の子の様子です。(文中に出てくるジュホアンシというのはクウィが属している文化的集団のことです。) 

 

彼には学校も、決まったスケジュールもありません。彼は、完全に目が覚めたときに起き、自分の好きなように1日を過ごします。ほとんどは、様々な年齢の子で構成された友達と遊んだり、探検したりします。大人の監督は一切なしで、集団の近辺のときもありますが、まったく遠く離れている時もあります。彼は、このようなことを4歳のときからしています。それは、ジュホアンシの大人たちが、こどもは論理的に考えることができ、自分をコントロールでき、大人の近くにとどまる必要もないと思っているからです。結果的に、毎日の探検が、新しい学びを提供してくれています。 

 

クウィと友達は役にたつ大人になりたいと思っているので、狩りなど生活に必要な技術を「ごっこ遊び」のかたちで練習し続けます。

 

弓矢を使って、蝶、鳥、ネズミ、ときには大きな獲物を追い詰めて、撃ちます。大人が組み立てた小屋や様々な道具に似たものも作ります。クーズー、ヌー、ライオン、その他のたくさんの動物の音や動くのものの物まねを、大喜びで大げさなやり方でします。クウィたちが優れたハンターになるためには、肉食動物から身を守ったり、それらの動物のクセを学んだりしなければなりません。そのためには、友達が異なる動物役を演じる遊びもします。自分たちのバンドや来訪している知り合いのバンドの大人達の話し方や動きを注意深く研究した上で、ユーモアたっぷりにそのモノマネもします。

 

ときには、秘密の隠された場所を見つけるために、クウィ達はブッシュの中に深く足を踏み入れることもあります。子供達は走り、追跡し、跳び、登り、投げ、そして踊ります。そうすることで、彼らは壮健で、バランスの取れたからだをつくるのです。

 

楽器を作り、聞き覚えのあるジュホアンシの歌を歌ったり、新しい歌を作り出したりすることもあります。彼らはこうしたことすべてを、自分たちがしたいからし、そしてみんな楽しんでしています。

 

それをしなさいという人は誰もいません。誰も彼らをテストしません。彼らに遊びを教えようとする大人もいません。けれども、ときには(特に若い)大人がおもしろ半分に加わることはあります。一方で、クウィたちが大人の始めたゲームや踊りに加わることもあります。彼らは自由な意思で学んでいくのです。

 

 これこそが、自然が設計した子ども時代なのです。

 

 とても自由で、楽しそうで遊びにあふれていますが、同時に遊ぶことで大人になってからの狩りに必要な動物の特徴を学んでいるし、しっかりした身体作りもしています。

 

幸せでかつ生産的な様子は、以前とりあげたレンズーリの拡充学習にも共通するものを感じます。

狩猟採集民という生き方

 こちらの本はリボンクラブ改めおひさまクラブのレオさんに教えていただいて読みました!

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

 

 人類が誕生してからいままで、99%の時間を狩猟採集民として生きてきて、農業を始めてそれに応じた生き方をしてきた時間はたったの1%なのだそうです。

 

そして、狩猟採集民の大人と子供がどのように遊びながらたくさんのことを学んできたのか、こどもの学びにいかに遊びが欠かせないのかを語っている非常におもしろい本です。

 

わたしは、この中で、狩猟採集民的な生き方、農民的な生き方という考えを知り、すごく衝撃を受けました。

 

いままで企業で働いてきた中で、学校で学んできた中で、違和感を覚えたやり方はことごとく農業から派生したやり方だったこと。自分がここちよくやっていけるやり方は狩猟採集民的な生き方だったことを知ったからです。

 

わたしにとって、ここちよく、生産的で人の役に立てる生き方は狩猟採集民的な生き方なんだな、と知りました。

 

だったら農民的な生き方をする人に出会うたびにがっかりして無力感に陥るのではなく、狩猟採集民的な生き方をしたり、同じような仲間と一緒になにかしていけば、幸せに楽しく生きられるのでは?と考えています。

 

引き続きどんな生き方が狩猟採集民的なのか、記事にしていきたいと思います。