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狩猟採集民の考える「平等」

狩猟採集民は小さなバンド(通常は、こどもを含めて20人から50人くらい)で、広大な範囲をもつ土地を、得られる獲物と植物を探して場所から場所へと移動しながら生活しています。彼らのことを調査したほとんどの研究者が言及する彼らの角となる社会的価値は、「自律(個人的自由)」「共有」そして「平等」です。近代的な民主的社会に生きるわたし達も、一般的にはこれらの価値をもっていますが、狩猟採集民のこれらに対する理解と重きの置き方は私たちのとは比べ物になりません。

 

自律というのは、ひとことでいうと他人にあれこれ指図しない、ということのようです。例えば、誰かになにかするように言うことは控える、おせっかいな忠告もしない、など。狩猟採集民がこどもに対して「信頼にあふれる子育て」をすることの基盤はここにあります。

 

子どもを含めて、誰もが自分の選択が他人の自由や社会的なタブーを犯さない限り、毎日何をするかは自分の判断で決めます。しかしながら、自律の中に私有財産を蓄積したり、他人に借金を背負わせたりする権利は含まれていません。それらは、2番目に大切な価値である共有と反してしまうからです。

 

経済的な観点から見ると、共有することこそが、狩猟採集民のバンドの目的と言えます。人々は、食料を獲得したり、肉食動物から身を守ったり、子育てをしたりするのを協力してやるために、スキルと努力を惜しみなく共有します。彼らは、食料やものはバンドの者とはもちろん、他のバンドの人たちとさえ共有します。そのように喜んで共有することこそが、狩猟採集民を厳しい環境の中で、長きにわたって生き延びさせた理由なのです。(中略)狩猟採集民にとって、共有は気前のよさでも潜在的な取引の要素もありません。単純に、義務なのです、他の人よりも多くを持っていた場合は共有することは当然のこととされており、それをしなかった場合は冷やかされたり、軽蔑されたりするのです。

 

わたしの中に共有という価値観はすごくあります。みんなで共有していいものを作っていこう、とか、地域で子育てしていこう、とか、共有すれば誰もにとっていい結果が得られるはずです。でも、ひとりでも自分だけが得しようと考えるとこのシステムはうまくいきませんね。

 

狩猟採集民の自律と共有の捉え方と密接に関係するのが、文化人類学者のリチャード・リーが「断固たる平等主義」と呼んだものです。それは、私たち近代西洋の「機会均等」という考え方をはるかに超えたものです。それは、誰のニーズも同じように大切で、誰かが他のものよりもすぐれていると思われることはなく、誰もが他の誰かよりもたくさんのものを持っていることはない、という意味です。このような平等は、彼らの自律の感覚の一部なのです、つまり、不平等だと、たくさん持っているものや、自分がすぐれていると思っているものが、少ししか持っていない者を支配してしまうことになりかねないからです。

 

いま日本で「平等」というと、悪しき平等主義が連想されますが、狩猟採集民の考える「平等」はかなり違うことがわかっていただけるかとおもいます。

 

もちろん、狩猟採集民も中にはいいハンターや植物を採集する人、いい交渉ができる人、いいダンスが踊れる人などがいることは認識しており、それらのスキルには価値を置いています、それでも、彼らは、能力を見せびらかしたり、自分の優位性をあからさまに表したりすることは強く非難します。

 

戦で使われる武器を自慢したり、共有しなかったり、タブーを犯したりしたときは、冷笑されたり、嫌われたりします。最初の段階では、不適切な行動をとった者を物笑いの種にします。誰かさんは自分が「えらい人」だとか、「素晴らしいハンター」だと思い込んでいるよ、というような歌を作るかもしれません。

 

もし不適切な行動が続く場合は、次の段階として、その者が存在しないがごとく扱います。そのような対処法は、違反者を正気づかせるには極めて効果的です。みんなに笑いものにされるので、偉そうに虚勢をはることは困難です。また、もし食料を溜め込むことの代償がみんなに無視されることなら、それをすることに価値はありません。

 

みなでこうした平等の価値観を共有していれば、1人2人、そこから逸脱する人が出ても、無法地帯になったりはしないということがわかります。