「才能」ということばが持つイメージ(追記あり)
レンズーリは、元々は才能教育が専門の方なので、才能ということばがよくでてきます。ひとつ前の記事で紹介した本もそうです。
ただ、わたしは「才能」ということばを聞くと複雑な思いがわいてきます。
なぜかというと、いま世間でこれが才能、と思われているのは、勉強ができて難関の学校に受かる、とか、バレエの才能があって厳しい練習に耐え、海外でプリマドンナとして活躍する、とか、サッカーでワールドカップに出るとか、そういう人が才能ある人、という捉え方が主流だと思うからです。
そういう人についてはそれはそれで別にいいも悪いもないのですが、才能とはそういうものでそれ以外は、才能じゃない、という捉え方には異議があります。
多重知能を提唱するガードナーのMI理論だってたったの8種類の知能しか規定していないのです。
困っていそうな人に気づいて、お手伝いできる、とか、誰よりも強いベイブレードを自作するとか、その場で笑い話を作って笑わせる、とか、人と違うおもしろい着眼点を持っているとか、日常のささいなできごとに幸せを感じられるとか、数かぎりない才能が人間にはあって、そういう才能は学校の勉強ができるようなことに比べたら地味で取るに足りないように見えるけれど、わたしが家庭での拡充学習をしていくにあたっては、いままでスポットライトがあたっていなかった才能を親が見つけて伸ばしてあげられたら、という思いが強いです。
他のところでほめられるようなことは、もう既に認められて、ほめられる機会があるのだから、それ以外のところを見つけて伸ばしてあげたい。
以前も書きましたが、ひとりの人間を地球とイメージした時、360度、全方位に伸びる可能性があって、そのうち認知され、開発されているのはほんの数パーセントだなあ、と思うのです。それ以外の広大な未開発地に着目したいです。
また、わたしたちは変化の激しい時代に生きていて、将来どんな才能、スキルが役立つかはいまの大人にはわからないのです。
少なくとも、大人の小さい価値観で才能の芽をつぶさずに、いろんな才能を伸ばしてあげられたらいいなと思います。
*2/22 追記
才能」ということばの定義に関しては前回紹介したこちらの本にあった定義がもっともだとおもったので引用します。
「すべての子どもには才能がある」というのは、その意味づけ(定義)によっては正しいといえます。何かの教科に優れた子供は才能があるし、スポーツや音楽、芸術での優れた能力、あるいはゲームやマニアックな趣味で発揮される能力も才能です。しかし才能をある特殊な分野の知識・技能がふつうの人より優れた少数者(全体の数パーセントとかもっと少数とか)に限定すれば、すべての子供が何らかの分野で才能者である可能性は、現実には低くなります。
でも、集団の中で上位にいるかという他人との比較ではなく、「すべての子どもは、他のものよりずっと興味をもって、その学習に没頭できる、そして上達する何かが必ずある」という意味で「どの子にも才能がある」というのは正しいのです。その才能は目覚めて育つ日を待っています。