竜の炎
先日たまたまゲド戦記の「帰還」について書かれている文章を読みました。「帰還」は3部作とされていたゲド戦記の4冊目として書かれたもので、出版された当時読んではっとしたものですが最近読んでなかったなと思い出しました。(ゲド戦記自体はその後外伝と5冊目が出て完結した模様です。)
ル=グィン自身がゲド戦記3部作を「改訂」するという意気込みで、既存の物語や神話を解体し新しい神話を作るために書いたという野心的な作品ですが、なにしろ魔法が使えなくなった魔法使い、中年になったヒロイン(いまは子育てを終えた主婦)、虐待され外見や女性としての美徳を損なわれ捨てられた娘、という無力な3人が悪意に翻弄されながら織りなす物語ですから、わたしのようなもの好きはともかく、世間的には熱狂的に受け入れられはしなかったのではないかと想像します。
- 作者: アーシュラ・K・ル=グウィン,マーガレット・チョドス=アーヴィン,Ursula K. Le Guin,清水真砂子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1993/03/25
- メディア: 単行本
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当時「ゲド戦記を生き直す」というル=グィンの講演を書き起こして記事にしたものが雑誌に出ていて、その写しが手元にあります。
最後の巻に出てくる竜のカレシンは危険な美だけではなく、危険な怒りとみられる野生を体現したものということができます。この竜の炎は第4巻全編を貫いています。竜の炎は人間の狂気の炎、弱きものたちの残忍な敵意の炎、暴力という際限ない輪をかいて、より弱いものへ、弱いものへとむけられる敵意の炎と正面から向かい合うことになります。竜の炎はそういう炎と向かい合い、それを焼き滅ぼしてしまいます。というのは、「悪は正すことができないなら、それを超えるしかない」からです、あの子どもがされたことはなかったことにはならないし、手を加えてなおるものでもありません。とすれば、まさにそこから出発するしかありません。それは決して楽な平坦な道ではありますまい。跳躍が、そして飛翔がどうしたって必要になってきます。
私は「帰還」の神話をこんなふうに理解しています。取り返しのつかないまでに虐待された子ども、人間の恵みという恵みはことどとく奪いさられた子どもーーテルーのようなこどもは世界に、今私たちのいるこの世界に数限りなくいるわけですがーーそんな子どもこそ私たちの道案内に立ってくれるのだと。
竜はよそ者、違う世界のものであって、人間ではありません。荒々しい野生の精神の持ち主で、危険で、空飛ぶ翼を持ち、人間が作り出した抑圧の秩序をとびだして、それをこわしてしまいます。竜は、けれど同時に私たちには親しみのもてるものであり、私たち自身の想像になる、賢い、翼をもった、物言う精霊でもあって、新しい自由の秩序を呈示してくれるものでもあります。
私たちが守るべき子ども、にもかかわらず裏切ってしまったあの子どもは私たちの道案内役を務めてくれています。彼女は私たちを竜のところにつれていってくれます。ところが彼女こそその竜なのです。
スクールカーストとか、いじめとか暴力とかなんでもそうですが、本当の意味で自分を肯定できない「弱きもの」は自分ひとりで立つことができないから、なんとか立っているために、自分以外の存在を格付けし、自分より強いものには媚び、自分より弱いとみたものに対しては徹底的におとしめます。それを「仕方ない」「そういうものだ」として思考停止して見て見ぬふりをしたり、自分より弱い存在を犠牲にしてしまう人たちにとってはそれは現実なのだろうと思います。
「人間の狂気の炎、弱きものたちの残忍な敵意の炎、暴力という際限ない輪をかいて、より弱いものへ、弱いものへとむけられる敵意の炎」というのはそういうことを指しています。
学校を卒業しても学歴、ステータスにこだわった仕事選び、伴侶選び、住む場所選びや子育てなど、「カースト思考」に縛られたまま「だれだってそうでしょう? そうするしかない」と決めつけてすべての競争に勝つ事を目指し、常に周りを自分の上か、下か、と品定めして不自由に辛い生き方をすることも可能です。
それは結局不本意とはいえ弱い存在を叩くことで自分が生き延びるという暴力が前提になっている思考形態です。外見をどう取り繕おうと、心の中は戦争やヤクザ闘争の世界です。
いじめや暴力、犯罪が起こる土壌としてそういう思考形態が世の中に蔓延していることがあるとおもいます。
でも、しっかりと自分というものを生き、自分の中に竜を住まわせ、時に炎を吐いて戦い、時に自由に飛びながら生きる、そういうひとたちだって世の中にはちゃんといるのです。カーストの外に自分を位置付けたって死にはしないのです。
「カースト信仰」が過ぎると、「そんなことできるわけない。そんな人いるわけない」と、真実が見えなくなってしまうのかもしれませんが。
「帰還」という物語の中で、すべての恵みや希望を失ったところから人生をスタートするテルーという少女が主人公であるということは、現世的な価値観でのプラスのカウントつまり容姿とか学歴だとか他人にアピールするためのスポーツや芸術の能力だとか、親のステータスだとか、そういうものがすべてない、希望や期待というものがゼロになったところから人が生きるということはどういうことか、ということを示唆しているのではないでしょうか。
そして、そこにこそ「行き詰まりに見える状況を打破する新しい価値観の創造」が生まれる可能性、希望があるんだということを示してくれているとおもいます。
これを拡大解釈するとすれば、いまわたしも含めて生きづらさを抱えて生きる人たちやこどもたち、また既成の価値観、旧態依然の組織、教育、そういったものに息苦しさを感じて自由を求める人たちには、新しい価値観を創造できる可能性がある、ということじゃないかと思います。
新しい生き方を生きるということは、時に周りをびっくりさせたり、怖がらせたりしてしまうこともあるかもしれない。時に苦労することもあるかもしれない。でも、そんなことに気にしないで、どんどん新しい自由な生き方を体現していきたいですね。
なにしろ竜なんだから、人と違ってあたりまえ。竜なんだから、みんながびっくりしたって仕方ない。竜は生まれつき規格外の生き物です。人間たちがよってたかってメジャーで測ろうとしても、無理なのです。
そして、自分自身であることを楽しみ、空を悠々と飛ぶようなスケールの大きい生き方をしていくうちに、周りの人たちも「なんだかそっちの方がよさそうじゃない、楽しそうだし」と思ってくれるといいなと。
竜の仲間が増えていったらいいですね。
こどもはどんな大人を必要としているか?
虹色教室のブログで素敵な記事を発見しました。(過去記事の再アップなのだそうです)
記事の中で紹介されている文章がとても心に響きました。
一瞬一瞬の観察で、教育者たちは子どもたちの成長や発達にともなう才能の変化に、どんなとらえにくいことでも気づくことができます。
それは、知性、心身のバランス、感情面の成長、好奇心、自律などの変化です。
このプロセスは、ほかの生き物に見られる発達とも似ています。
生物学的な比喩は、すぐれた教育者たちにたびたび使われてきました。
というのも彼らは、生徒たちのなかに、自分固有のルールに従い、自分のペースで展開する、生き生きした自律的な進化を認めるからです。
(省略)このような眼差しを注がれると、成長していく子どもたちは
深い尊敬と自信を呼び覚ましてくれます。
そして、教育者が強制する必要なしに、子どもたちのなかに自律的なプロセスが続きます。
付け加えなければならないものは、何もありません。
すべての知恵と善が、すでに子どもたちのなかにあるのです。生徒たちから学ぶことが教育者の務めであり、その逆ではありません。
こどもたちに見られる「自分固有のルールに従い、自分のペースで展開する、生き生きした自律的な進化」とはこどもたちの中にある「育つ力」そのものですね。そして教育者がその「育つ力」をこどもたちの中に認めることで、こどもたちの中の「自律的な進化」のプロセスにスイッチが入り、進んでいくのですね。
一粒の種の中に、丸ごとの宇宙の素が入っていて、成長するに連れて自然に展開されていき、ひとつの宇宙になる、というようなイメージを持ちました。
そして教えてやろうという上から目線ではなく、こどもたちひとりひとりの中に眠っている「すべての知恵と善」から学ぶ、という教育者の姿勢がとても大切なのですね。
そして、こどもから見た「よい教育者の資質」としてこんなことが紹介されています。
● 私たちが選択したことを実際に試み、恐れることなく世界を探検する手助けをしてくれる人。そしてもし私たちが失敗したり、困った問題に巻き込まれたりしても、私たちは裁かれないということを知っている。
● 私たちができること、なれるものを示してくれ、新しい発見がどんな喜びを生み出すか、示してくれる人。
● どれほど陳腐なものであっても人生に持ち込み、それをいきいきした魅力いっぱいのものにする人。
● 私たちが自分で何か探し出すように励まし、私たちを自分の才能に結びつけ、私たちが学んだことは自分がやったことなのだと気づかせてくれる人。
● 私たちを退屈させたり、眠りこませたりすることは決してしない。
ただちょうどよい量の夢を見せて、常に私たちの注意を呼び覚まし、刺激する用意ができている人。
● 苦労せずに学ぶ手助けをし、そのため私たちは、学んでいることが、
深いところではずっとわかっていたことだと感じる。
これを読んで心の深いところで「ああ」と腑に落ちました。こどものわたしが周りの大人に求めていたことってこういうことだったなって。いまでも、こどもに対してどう対応したらいいかな?と思った時拠り所にするのは、自分がこどもだった時の「こういう対応がいやだった」「こういう風にしてもらってうれしかった」という感覚です。
わたしがこどもの頃、なにが原因といったらいいかよくわかりませんが、とにかく辛かったです。敏感さを持っていて傍目には気むずかしく見えていただろうし、わかりやすい長所のあるこどもでなかったし、自分自身も機能不全家族で育ったために不適切な行動をとるところがありました。
でもこどもだから、わざとやっているわけじゃないし、もっと大人のサポートが欲しいとおもっていました。
自分の親や学校の先生に対して「どうしてこうなんだろう」という不満があり、「もっと素敵な大人が身近にいたら」、そういう思いがありました。
いつの頃か忘れましたが、この人たちは変わらないから仕方ない。自分はいまこどもだから、社会を変えられない。自分が大人になったら、もっといい大人になればいいんだって決めました。
それが、わたしの「こどものためになることをしたい」の原点です。こどもにとって自分は「こうあってほしい大人」になれているかなあと時々思います。
記事で引用されている文章はこちらの本からだそうです。
- 作者: ピエロフェルッチ,Piero Ferrucci,平松園枝,手塚郁恵
- 出版社/メーカー: 誠信書房
- 発売日: 1999/08
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お小遣いチャレンジ、始まる
わたしがお小遣いについての本を借りてきていたのをしっかりと見ていた上の子。
お小遣いが欲しいと提案してきました。わたしの借りた本のマンガの部分を読んだらしく、こういうやり方をすればもらえるらしいとおもったみたいです。
いろいろ話し合って、これでやってみようか、と話しているのはこんな内容です。
毎日ひとつお手伝いをする。上の子は朝、食洗機に入っている食器をしまう。下の子は幼稚園から帰ったらお風呂掃除をする。
毎日お手伝いをやったかどうか記録する。
一週間単位で集計して、お手伝いした日の1日あたり10円お小遣いがもらえる。
お小遣いはなににいくら使ったかお小遣い帳につける。お金の上手な使い方の勉強のため。
なぜかお風呂掃除をやりたがっていた下の子も、一緒にチャレンジすることに。
うまくいくかな?
こうしたい、とおもうことがあったら提案してもらって、話し合って、試行錯誤する、というスタイルを学んで欲しいとおもっていたので、こどもの側から提案してきてくれたこと、話し合ってこうしようと方針が決まったことはよかったなとおもいます。
成長するにつれて、提案も複雑になったり、プレゼンがあったり、交渉も高度になったりするのかなという気もしますけど、それも勉強ですよね。
きょうのセッション
いま上の子が音読の宿題で、アーノルド・ローベルのお話を読んでいるのですが、先日それを聞く役目を夫にお願いして、ちょっとその場を離れていたら、そのすきにおもしろいことになっていました。
上の子がちょっとお話を読むと、合間に下の子がピアノを適当に演奏する、というセッションが繰り広げられていたのです!
ちなみに下の子はピアノも習ってないし、幼稚園でピアニカもやってないので、本当に聞いたお話に合わせてそれっぽくでたらめに弾いているだけです。
でも、なんかすごくいい感じの即興になっていました。
下手に勉強してないのがいいのかな。
下の子は気分がのったのか、終わってからご挨拶してバレリーナのようなお辞儀をしていました。
上の子もとても盛り上がって、気持ちを入れて素敵に読んでいて、終わったら「毎日これがいい!」と喜んでいました。
へんてこなかぞくのおはなしです。
手を動かして折り紙製作
友達とぶつかって悲しい思いをするということ
年中さん、年長さん(4〜6歳)のこどもたちが遊んでいるところを見ていて、上の子がそのくらいだった時のことを思い出しました。
お友達との遊び方がまた一段とレベルアップしてくる頃です。
上の子はその頃好きなお友達ができて、その子のグループに入って一緒に遊んでいました。就学前には親がこどもたちの遊ぶ様子をみられます。でも、だからこそ「見ていられない」という出来事はたくさんありました。
理不尽なケンカ、グループに入れない、逆に仲良しで固まってしまって新しい子をオープンに受け入れて遊べない、仲間はずれなどなど。
自分の子や他の子が悲しそうな顔をしていたり、ぽつんとひとりでいたりすると、切なくて、ついそこで大人が介入したくなるところではあります。
でも小2になった上の子のここ数年の様子を見ていて思うのは、そういうことを経験したからこそ、後でそれを乗り越える強さがでてきたのかな、ということです。
本当にみじめな思い、辛い思いを心からすることが、一段階大きい自分に成長する力を引き出すきっかけになるのではないかとおもうのです。
友達に理不尽なことをされて悔しい、と思うから次は言い返そうか、と思う。
仲間はずれにされていや、という気持ちを体験するから、逆の立場だったら入れてあげようと思う。
お互いの意見がぶつかって困った状況を経験するから、どうしたらいいか頭をひねって知恵を絞る。
こどもが辛そうな時、親がどこまで踏み込むのか、どう対応したらいいか、という正解はないように思いますが、こうした体験を表面的に見て「失敗」と捉えずに、心の隅で「こういう体験がこの後の成長につながるのだな」という気持ちを持って見守ることで、こどもの持っている「育つ力」を目一杯引き出すことができるのかもしれません。
こどもたちを見ていると、低学年のうちは、嫌な体験をしても根に持つことなく、何度でも同じ子に「あそぼ!」と向かっていったりします。そしていつの間にか仲良くなっているということも何回もありました。そういう、いくらでもやり直せる時期に、そうした一見ネガティブな「嫌な気持ちになる」体験をたくさんしておくということは、大きくなってからの財産になるんじゃないかと感じています。
「どうせ無理」とつぶし合う世界から「だったらこうしてみたら?」と夢を叶えあう世界へ
植松努さんという人の文章に出会い、感動しています。少し前に話題になっていたそうなので、ご存知の方も多いのかもしれません。
植松さんは小さい頃から宇宙に興味がありましたが、学校の成績も悪く教師に「どうせ無理」といわれほとんど夢を諦めかけていたのだそうです。しかし、植松さんは自分で勉強もし、出会いや巡り合わせもあり、いまは自分が経営する会社でロケットを作って飛ばしたりと宇宙開発に携わっています。本業ではない宇宙開発をするのは「どうせ無理」をひっくりかえして子どもに「なんだってできる!」と夢を持って欲しいからなのだそうです。さらには「どうせ無理」がなくなればいじめ、暴力、戦争、児童虐待もなくすことができるかも、と考えているそうです。
これからの日本を良くしていくために、世界を良くしていくためにはやったことのないことをやりたがる人たち、あきらめない人、工夫する人たちが増えればいいんです。「どうせ無理」に負けない人が増えればいいんです。
詳しくはこちらのTEDの講演の記録を読むとわかります。地に足のついたことばで語ってらして素晴らしいとおもいます。
植松さんのブログをいろいろ読んだり本を取り寄せたりしているところなので、また機会があれば紹介したいとおもいます。