一方通行のコミュニケーションと双方向のコミュニケーション
前の記事で紹介した内田伸子さんの提唱する共有型しつけについて簡単にまとめてあるサイトをみつけました。
共有型しつけとは
子どもと楽しい時間を過ごしたり、子どもが喜びそうなことを考えて、一緒に体験しながら学んでいくしつけ。親が子どもが好きそうなことを考えたり、一緒に旅行や外出するのが好きだったり、子どもに絵本の読み聞かせをしている家庭の、親子のコミュニケーションです。
一方 強制型しつけとは
決まりを作り、うるさく言ってしまったり、何度も事細かに言い聞かせたり、指示をするなど、子どもの気持ちに寄り添わずに大人の意見を重視するしつけ。
いまアサーションといって、「お互いを大切にしながら、素直にコミュニケーションするための考え方と方法」の本を読んでいたのですが、それにも通じるものがあるなとおもいました。
攻撃的に一方的に自分の主張を押し付けるコミュニケーション、逆に自分のいいたいことは飲み込んで相手に合わせるだけのコミュニケーション、こういう一方通行のコミュニケーションは、自分がそうした環境で育って無意識に身につけているとそのことに無自覚です。
また、習慣的にこうした型にはまったコミュニケーションを反射的にしているだけで、本当に自分のしたいことはなんだろう、ということに気づいていない場合もあるかもしれません。
適切な自己表現の方法についてかいてある文章を引用します。
アサーティブな自己表現とは自分の考えや気持ちを明確にとらえて、それを正直にわかりやすく相手に伝えてみようとすることです。同時に、相手が自己表現することを当然とし、その考え、気持ちを理解しようとします。
アサーティブな自己業限には、二つの側面があります。一つは「自分の表現」を大切にしようとする側面で、二つのステップがあります。最初のステップは、自分の意見や感じを確かめること、まず自分の気持ち、表現したいことを自分のなかではっきりさせることです。
自分を確かめることに集中すると、ときにはっきりした気持ちや意見もあるけれど、曖昧な考えや、悲しくもあり腹立たしくもありといった両面的な感情や迷い、困惑などがあることがわかるかもしれません。
第二のステップは、確かめた思いを自分のことば、表現法を使って、なるべく率直に言ってみようとすること。「迷っている」「困っている」「うまく言えない」時はそう伝えてもよいのです。それが率直で正直な思いだからです。
自分の気持ちを確かめ、それを伝えたら、次に「相手の表現」を大切にする側面に心を向けます。自分の思いを相手はどう受け止めたか、きちんと見届け、対応しましょう、
相手にも同じように、思いを確かめ、表現するプロセスがあります。それを待ち、聞くことではじめてアサーティブなやりとりが成立します。
普段からこうしたコミュニケーションができているか、振り返ってみたいですね。そして自分とこどもの間でも、こうした関係でコミュニケーションしていき、こどもが他人とやりとりする時もこのようにお互いの違いを認め合いながら尊重しあえるようにサポートしていきたいです。
この本はとてもよかったので、また機会があればじっくり紹介したいです。
共有型しつけがいいことはわかったけどどうやったらいいのかな?という方にもおすすめの本です。
自発的にその子の喜びを追及させてあげることが学力を伸ばすーー共有型しつけのこと
最近、内田伸子さんという研究者の本を読んでいます。
こちらの記事を読むとエッセンスがわかります。
発達心理学の研究を長年行ってきた立場から発信されています。
例えば
- 想像力は「生きる力」である
- 楽しいと感じた時に記憶力が高まる
- 叱られながらやった勉強は身に付きませんが楽しく活動しているときには「好きこそものの上手」という状態になり、子どもの学力も伸びるのです。
- 幼児期の豊かな体験が後の脳の成長の基盤になる
- 子どもの主体性を大事にする大人の関わりが子どもを伸ばす
- 強制型しつけより共有型しつけの方が有効であり、大きくなってからの難関を突破する力につながるというデータが出ている
- こどもが疑問を持った時すぐに答えを与えるのではなく、こどもが自分で考えるための足場をかけてあげるようなサポートをしてあげるとよい
というような、わたしがいままでの子育ての中の試行錯誤から「こうしたらいいんじゃないか」と考える子育てのことが書いてあり、「やっぱりこれでいいんだ!」と嬉しくなりました。
共有型しつけとは「親子のふれあいを大切に、子どもと楽しい経験を共有したいというしつけ」のことだそうで、こうした関わりがこどもをいろいろな意味で伸ばすことが研究により明らかになったそうです。具体的な関わり方も示してありわかりやすいです。
第6回「子育てに『もう遅い』はありません~どの子も育つ共有型しつけのススメ~ 」(1) - 日本子ども学会 ~子どもたちの健やかな成育環境づくりを支援します~
親が子供に接する時に気をつけてあげてほしいことが簡潔に述べられている部分を引用します。
自分から本当にやろうとしないと自分の力にはなりません。自分で関心を持てばあっというまに習得してしまいます。文字は子どもの関心の網の目に引っ掛かってくるにすぎません。肝心なのは文字が書けるかどうかではなく、文字で表現したくなるような内面の育ちであるというふうに思われます。つまり創造的な想像力を育むことが、乳幼児期の発達課題になるであろうと。そこで、保育者や保護者、指導者の皆様に申し上げたいのは、次の5点です。
第一に、子どもに寄り添うと、安全基地になる。子どもとの間に信頼関係をしっかり作り上げることが大事です。
第二に、その子自身の進歩を認め、ほめていただきたい。ほかの子とは比べない5歳後半になれば、展示ルールが獲得され、人目を気にしたり人と比べたりするようになりますから。親はその子自身の進歩を認め、ほめていただきたいと思います。常に、「3つのH」―ほめる、励ます、(視野を)広げる ということばをかけていただきたいと思います。
第三に、生き字引のように余すところなく定義や回答を与えない。
第四に、裁判官のように判決を下さない。禁止や命令ではなく提案の形で言ってほしい。「何々したら」と提案したら、「僕したくない」と、子ども自身で選択する余地があります。このように、子ども自身が主体的に判断して選べるような選択の余地のある言葉をかけていただきたいと思います。
第五に、子ども自身が考え、判断する余地を残すこと。このような働きかけ、つまり大人が子どもの主体性を大事にした関わり方をすることによって、子ども自身、自分で考えるという自律的思考力や、創造的想像力が育つのです。
親は、お子さんが疑問を感じた時、すぐに回答や解説をしないでいただきたいと思います。お子さんがどんなところに躓いているのか、どこに疑問を感じて先に進めないのかをよく洞察してください。お子さんが迷っている点が見つかれば、足場(scaffolding;注:教育心理学者ブルーナー;J. Bruner, 1981)を架けて、お子さんが一歩踏み出せるようにしてあげてほしいのです。
おうちディスコ
最近雨が続き、サッカーの練習もできず、運動不足のわが家。先日夫がdanceの時間を作ってくれました。
といってもベッドのある部屋で大きい音で音楽かけるだけなんですけどね...。
ただとびはねるやら、まわるやら、2人で合わせるやら...こどもたちはいろんなジャンルの音楽で、音に合わせてパパと一緒に踊りました。
一瞬一瞬の音に合わせて、頭を空っぽにして即興的に動きを繰り出して行くのは、拡散思考というか、アイディアをとにかく出すブレインストーミングにも似て、なかなかクリエイティブな体験かなとおもいます。
とにかく楽しいですし!
おうちディスコ、おすすめです。
人と人を比べるということ
最近、自分の中でテーマとして出てきていることに「人と人を比べて順列をつけて、優越感を得るってどういうことなんだろう?」というのがあります。
そういうことを考えさせられる出来事が続いています。
まだ、自分の中でそれがどういうことなのかよくまとまっていませんが、ひとまず植松努さんの文章を読みながら考えています。
tsutomu-uematsu.hatenablog.com
例えば、こちらのブログの文章にもいろいろ考えさせられます。
人はそれぞれまったく違う輝きを持つ存在で、本来は比べられるものではありません。なのに、人はなんとか順位をつけようとする。年齢だとか、成績だとか、スポーツだとか。それはずっと昔からそうです。
無理なのになんとか測ろうとしても、それはものごとのほんの一部を取り出して平面的にのっぺりとしたものに直して、そこにメジャーをあてて測るようなことになります。
順位をつけたくなる気持ちがなぜ出てくるかといえば、人の心の中に、そのままの自分に自信がない、そのままでいいとおもえない、という気持ちが存在するからなのかもしれません。
順位をつけて、自分は最下位じゃないと思うと少し不安がやわらぐ気がするのではないかとおもいます。
でも結局それで完全にすっきりはしないから、いつも不安に苛まれているから、強迫的に常に自分の立ち位置を確認しなくてはいけなかったり、自分がいかにすごいかアピールし続けなきゃいけなかったり、時に自分の不安でいっぱいになりすぎて、だれかを蹴落とすことに無自覚だったり、するのかもしれません。
やり続けてしまう、というのはそれが究極の問題解決になってない、という事だと思います。ずっとそこにとらわれ続けている、次のステージにいけない、という事だと思います。
「自分は自分のままですばらしい」「自分は人と違うからいいんだ」「生きていてよかった」「自分はここにいていいんだ」としっかり実感することができれば、そんなくだらないことはしなくて済むし、不安に駆られて疲れなくていいし、余裕ができてもっと人に気遣いできるようになる気がします。
順位が気になってしまう、という時は、自分の心の中をよく観察して、その原因をよく見つめたいですね。
人より優位に立てば、その場は少し不安から逃れられるかもしれないけど、究極の解決にはなっていない、ということ、よく考えてみたいですね。
また、成績やスポーツ、ステータスなど、人と人を比べる指標というものはすべて、ものごとのほんの一部のことしか表していない。人間の価値とはもっと時間的にも空間的にも奥深いものだ、ということも忘れないでいたいです。
だれかと比べない自信というのは、植松さんのいうように、幼いころの家族からの無償の愛の経験だとか、自分で好きな事をやり続けていろいろなことができるような経験だとか、そういうものから生まれるのでしょうか。
そういうものが得られなかったこどもにも、地域や社会で「だれかと比べない自信」をつけてあげるにはどうしたらいいでしょうか。
本来、学校とはそういう場のはずではなかったのでしょうか。
まだ答えはでないけど考え続けたいです。
竜の炎
先日たまたまゲド戦記の「帰還」について書かれている文章を読みました。「帰還」は3部作とされていたゲド戦記の4冊目として書かれたもので、出版された当時読んではっとしたものですが最近読んでなかったなと思い出しました。(ゲド戦記自体はその後外伝と5冊目が出て完結した模様です。)
ル=グィン自身がゲド戦記3部作を「改訂」するという意気込みで、既存の物語や神話を解体し新しい神話を作るために書いたという野心的な作品ですが、なにしろ魔法が使えなくなった魔法使い、中年になったヒロイン(いまは子育てを終えた主婦)、虐待され外見や女性としての美徳を損なわれ捨てられた娘、という無力な3人が悪意に翻弄されながら織りなす物語ですから、わたしのようなもの好きはともかく、世間的には熱狂的に受け入れられはしなかったのではないかと想像します。
- 作者: アーシュラ・K・ル=グウィン,マーガレット・チョドス=アーヴィン,Ursula K. Le Guin,清水真砂子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1993/03/25
- メディア: 単行本
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当時「ゲド戦記を生き直す」というル=グィンの講演を書き起こして記事にしたものが雑誌に出ていて、その写しが手元にあります。
最後の巻に出てくる竜のカレシンは危険な美だけではなく、危険な怒りとみられる野生を体現したものということができます。この竜の炎は第4巻全編を貫いています。竜の炎は人間の狂気の炎、弱きものたちの残忍な敵意の炎、暴力という際限ない輪をかいて、より弱いものへ、弱いものへとむけられる敵意の炎と正面から向かい合うことになります。竜の炎はそういう炎と向かい合い、それを焼き滅ぼしてしまいます。というのは、「悪は正すことができないなら、それを超えるしかない」からです、あの子どもがされたことはなかったことにはならないし、手を加えてなおるものでもありません。とすれば、まさにそこから出発するしかありません。それは決して楽な平坦な道ではありますまい。跳躍が、そして飛翔がどうしたって必要になってきます。
私は「帰還」の神話をこんなふうに理解しています。取り返しのつかないまでに虐待された子ども、人間の恵みという恵みはことどとく奪いさられた子どもーーテルーのようなこどもは世界に、今私たちのいるこの世界に数限りなくいるわけですがーーそんな子どもこそ私たちの道案内に立ってくれるのだと。
竜はよそ者、違う世界のものであって、人間ではありません。荒々しい野生の精神の持ち主で、危険で、空飛ぶ翼を持ち、人間が作り出した抑圧の秩序をとびだして、それをこわしてしまいます。竜は、けれど同時に私たちには親しみのもてるものであり、私たち自身の想像になる、賢い、翼をもった、物言う精霊でもあって、新しい自由の秩序を呈示してくれるものでもあります。
私たちが守るべき子ども、にもかかわらず裏切ってしまったあの子どもは私たちの道案内役を務めてくれています。彼女は私たちを竜のところにつれていってくれます。ところが彼女こそその竜なのです。
スクールカーストとか、いじめとか暴力とかなんでもそうですが、本当の意味で自分を肯定できない「弱きもの」は自分ひとりで立つことができないから、なんとか立っているために、自分以外の存在を格付けし、自分より強いものには媚び、自分より弱いとみたものに対しては徹底的におとしめます。それを「仕方ない」「そういうものだ」として思考停止して見て見ぬふりをしたり、自分より弱い存在を犠牲にしてしまう人たちにとってはそれは現実なのだろうと思います。
「人間の狂気の炎、弱きものたちの残忍な敵意の炎、暴力という際限ない輪をかいて、より弱いものへ、弱いものへとむけられる敵意の炎」というのはそういうことを指しています。
学校を卒業しても学歴、ステータスにこだわった仕事選び、伴侶選び、住む場所選びや子育てなど、「カースト思考」に縛られたまま「だれだってそうでしょう? そうするしかない」と決めつけてすべての競争に勝つ事を目指し、常に周りを自分の上か、下か、と品定めして不自由に辛い生き方をすることも可能です。
それは結局不本意とはいえ弱い存在を叩くことで自分が生き延びるという暴力が前提になっている思考形態です。外見をどう取り繕おうと、心の中は戦争やヤクザ闘争の世界です。
いじめや暴力、犯罪が起こる土壌としてそういう思考形態が世の中に蔓延していることがあるとおもいます。
でも、しっかりと自分というものを生き、自分の中に竜を住まわせ、時に炎を吐いて戦い、時に自由に飛びながら生きる、そういうひとたちだって世の中にはちゃんといるのです。カーストの外に自分を位置付けたって死にはしないのです。
「カースト信仰」が過ぎると、「そんなことできるわけない。そんな人いるわけない」と、真実が見えなくなってしまうのかもしれませんが。
「帰還」という物語の中で、すべての恵みや希望を失ったところから人生をスタートするテルーという少女が主人公であるということは、現世的な価値観でのプラスのカウントつまり容姿とか学歴だとか他人にアピールするためのスポーツや芸術の能力だとか、親のステータスだとか、そういうものがすべてない、希望や期待というものがゼロになったところから人が生きるということはどういうことか、ということを示唆しているのではないでしょうか。
そして、そこにこそ「行き詰まりに見える状況を打破する新しい価値観の創造」が生まれる可能性、希望があるんだということを示してくれているとおもいます。
これを拡大解釈するとすれば、いまわたしも含めて生きづらさを抱えて生きる人たちやこどもたち、また既成の価値観、旧態依然の組織、教育、そういったものに息苦しさを感じて自由を求める人たちには、新しい価値観を創造できる可能性がある、ということじゃないかと思います。
新しい生き方を生きるということは、時に周りをびっくりさせたり、怖がらせたりしてしまうこともあるかもしれない。時に苦労することもあるかもしれない。でも、そんなことに気にしないで、どんどん新しい自由な生き方を体現していきたいですね。
なにしろ竜なんだから、人と違ってあたりまえ。竜なんだから、みんながびっくりしたって仕方ない。竜は生まれつき規格外の生き物です。人間たちがよってたかってメジャーで測ろうとしても、無理なのです。
そして、自分自身であることを楽しみ、空を悠々と飛ぶようなスケールの大きい生き方をしていくうちに、周りの人たちも「なんだかそっちの方がよさそうじゃない、楽しそうだし」と思ってくれるといいなと。
竜の仲間が増えていったらいいですね。
こどもはどんな大人を必要としているか?
虹色教室のブログで素敵な記事を発見しました。(過去記事の再アップなのだそうです)
記事の中で紹介されている文章がとても心に響きました。
一瞬一瞬の観察で、教育者たちは子どもたちの成長や発達にともなう才能の変化に、どんなとらえにくいことでも気づくことができます。
それは、知性、心身のバランス、感情面の成長、好奇心、自律などの変化です。
このプロセスは、ほかの生き物に見られる発達とも似ています。
生物学的な比喩は、すぐれた教育者たちにたびたび使われてきました。
というのも彼らは、生徒たちのなかに、自分固有のルールに従い、自分のペースで展開する、生き生きした自律的な進化を認めるからです。
(省略)このような眼差しを注がれると、成長していく子どもたちは
深い尊敬と自信を呼び覚ましてくれます。
そして、教育者が強制する必要なしに、子どもたちのなかに自律的なプロセスが続きます。
付け加えなければならないものは、何もありません。
すべての知恵と善が、すでに子どもたちのなかにあるのです。生徒たちから学ぶことが教育者の務めであり、その逆ではありません。
こどもたちに見られる「自分固有のルールに従い、自分のペースで展開する、生き生きした自律的な進化」とはこどもたちの中にある「育つ力」そのものですね。そして教育者がその「育つ力」をこどもたちの中に認めることで、こどもたちの中の「自律的な進化」のプロセスにスイッチが入り、進んでいくのですね。
一粒の種の中に、丸ごとの宇宙の素が入っていて、成長するに連れて自然に展開されていき、ひとつの宇宙になる、というようなイメージを持ちました。
そして教えてやろうという上から目線ではなく、こどもたちひとりひとりの中に眠っている「すべての知恵と善」から学ぶ、という教育者の姿勢がとても大切なのですね。
そして、こどもから見た「よい教育者の資質」としてこんなことが紹介されています。
● 私たちが選択したことを実際に試み、恐れることなく世界を探検する手助けをしてくれる人。そしてもし私たちが失敗したり、困った問題に巻き込まれたりしても、私たちは裁かれないということを知っている。
● 私たちができること、なれるものを示してくれ、新しい発見がどんな喜びを生み出すか、示してくれる人。
● どれほど陳腐なものであっても人生に持ち込み、それをいきいきした魅力いっぱいのものにする人。
● 私たちが自分で何か探し出すように励まし、私たちを自分の才能に結びつけ、私たちが学んだことは自分がやったことなのだと気づかせてくれる人。
● 私たちを退屈させたり、眠りこませたりすることは決してしない。
ただちょうどよい量の夢を見せて、常に私たちの注意を呼び覚まし、刺激する用意ができている人。
● 苦労せずに学ぶ手助けをし、そのため私たちは、学んでいることが、
深いところではずっとわかっていたことだと感じる。
これを読んで心の深いところで「ああ」と腑に落ちました。こどものわたしが周りの大人に求めていたことってこういうことだったなって。いまでも、こどもに対してどう対応したらいいかな?と思った時拠り所にするのは、自分がこどもだった時の「こういう対応がいやだった」「こういう風にしてもらってうれしかった」という感覚です。
わたしがこどもの頃、なにが原因といったらいいかよくわかりませんが、とにかく辛かったです。敏感さを持っていて傍目には気むずかしく見えていただろうし、わかりやすい長所のあるこどもでなかったし、自分自身も機能不全家族で育ったために不適切な行動をとるところがありました。
でもこどもだから、わざとやっているわけじゃないし、もっと大人のサポートが欲しいとおもっていました。
自分の親や学校の先生に対して「どうしてこうなんだろう」という不満があり、「もっと素敵な大人が身近にいたら」、そういう思いがありました。
いつの頃か忘れましたが、この人たちは変わらないから仕方ない。自分はいまこどもだから、社会を変えられない。自分が大人になったら、もっといい大人になればいいんだって決めました。
それが、わたしの「こどものためになることをしたい」の原点です。こどもにとって自分は「こうあってほしい大人」になれているかなあと時々思います。
記事で引用されている文章はこちらの本からだそうです。
- 作者: ピエロフェルッチ,Piero Ferrucci,平松園枝,手塚郁恵
- 出版社/メーカー: 誠信書房
- 発売日: 1999/08
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 4回
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お小遣いチャレンジ、始まる
わたしがお小遣いについての本を借りてきていたのをしっかりと見ていた上の子。
お小遣いが欲しいと提案してきました。わたしの借りた本のマンガの部分を読んだらしく、こういうやり方をすればもらえるらしいとおもったみたいです。
いろいろ話し合って、これでやってみようか、と話しているのはこんな内容です。
毎日ひとつお手伝いをする。上の子は朝、食洗機に入っている食器をしまう。下の子は幼稚園から帰ったらお風呂掃除をする。
毎日お手伝いをやったかどうか記録する。
一週間単位で集計して、お手伝いした日の1日あたり10円お小遣いがもらえる。
お小遣いはなににいくら使ったかお小遣い帳につける。お金の上手な使い方の勉強のため。
なぜかお風呂掃除をやりたがっていた下の子も、一緒にチャレンジすることに。
うまくいくかな?
こうしたい、とおもうことがあったら提案してもらって、話し合って、試行錯誤する、というスタイルを学んで欲しいとおもっていたので、こどもの側から提案してきてくれたこと、話し合ってこうしようと方針が決まったことはよかったなとおもいます。
成長するにつれて、提案も複雑になったり、プレゼンがあったり、交渉も高度になったりするのかなという気もしますけど、それも勉強ですよね。