「大変だね」ということばのかけ方
自分が働くことになり、そのことを話すとみなさんいろいろ声をかけてくださるのですが、その中でも一番多いのが「大変だね」ということばです。
「大変だね」といってくれて「応援されてるんだな、うれしいな」という気持ちになる時と、「わーなんだか重いな」と感じる時があります。
なにが違うのか、考えてみました。
わたしは基本的に仕事は苦しく楽しいものだ、という認識があります。それは子育てというお給料が出ない仕事でも同じことですね。大変なこともあれば喜びもある。
その中で「苦」にものすごくフォーカスしながら「大変だね」といわれると、なんかその負のエネルギーに一緒に巻き込まれそうでなんだか気持ち悪いと感じます。
しかもその「苦」の内容がその人の経験範囲のことをそのままわたしにあてはめようとしていたり、時にはその人が仕事というものにもっている、恐れ、不安、などのネガティブ思考そのものだったりします。
たしかに労働条件が悪いとか人間関係がきついとかの厳しい状況があるのは経験上知っていますが、世の中全部そうではないでしょ?とおもうのですが。
いろいろな人がいろいろなことを考えて、その人の価値観を持っていて、それらがいっしょくたになっているのがこの世界なのだなとおもいます。
わたしはいまのところひさしぶりの仕事を楽しんでいます。
いい幼稚園ってどんな幼稚園?
下の子が無事に幼稚園を卒業しました。
いまはここの幼稚園に通わせてよかった、という思いです。
この幼稚園は、声高に〇〇式とかうたうところではなくて、一見ごく普通の幼稚園、という感じです。一学年2クラスで中規模、親の係は少なめで、その代わり保育は任せてくださいという方針。派手な謝恩会もありません。運動会や発表会も親を喜ばせるための派手な演出は控えめで、保育を重視するのであまり期待しないようにとあらかじめいわれています。
入園後に他のママと話していて「ここはほどほどでいいとおもった」といっていたので、確かに、と思ったのを覚えています。
実はこの園については入園前に否定的なコメントを聞いていたのであまり乗り気ではありませんでした。でもここに入れたいとおもったのは、説明会での園長のお話しがよかったからです。
こどもたちに、自分で考えて自分で動ける力をつけてあげたい。それこそが生きる力だから。手取り足取りやってあげる方が簡単だけど、わたしたちはそうしたくない。
という話でした。
そして、卒園式で園長の話を聞いたら、やはりそのことを話していました。
先日年長さんたちに「みんなのこと信じているよ。」「きっとできるとおもうから、自分たちでどうしたらいいか考えてやってみてくれる?」とお話ししたら、こちらの予想以上にしっかりと考えて行動してくれて、感動しました。みなさんのお子さんたちは、しっかりと生きる力を身につけていますよ、どうかみなさんも時々言葉にだして「信じているよ」と伝えてみてください。とお話しされていました。
3年前と全くブレていないんです。それって簡単なようでなかなかできないことだと思います。いろいろいわないけど信念を持って運営されている園なのだなとおもいました。
施設に通うこどもたちも受け入れていて、難しい側面を見せる子たちにも愛情を持って接してくれていると思います。
園長ともお話しする機会があったのですが、下の子が年少の時の発表会で、恥ずかしくなって固まって棒立ちになっていたこと、よくおぼえてらして、立派に成長しましたね、とお話ししてくれました。聞けば、年少の時の発表会では、出番待ちの下の子と一緒に舞台裏にいたのだそうです。
園長だけでなく担任以外のすべての先生が、よく声をかけたり遊んだり、よく見てくださっていました。
そういうことって、なにか華々しくアピールできることではないけれど、小さい子を預ける側にとってはとっても重要なことなんですよね。
自分の決断としても、他人の意見に流されずに自分の目と耳で得た情報をもとに判断してこの園に入れてよかったなと、いま思えます。
段ボールハウスとキティちゃんランドごっこ
最近土日はただゆるゆるしているうちの家族です。
きょうは、上の子は段ボールでせっせとお家を作っていました。
双眼鏡をはめこんでます。天井にはランタン型の懐中電灯をはめたようです。ドアを開けてみたら、クッションやフリースのブランケットで快適そうな仕様になってました。
下の子は「キティちゃんランドに行く人ー!」と募集して、切符を作って、ハンコを押したり、ご案内したりしていました。
キティちゃんの絵を描いた切符をたくさん作りました。
体操着ない事件
今朝通勤の電車を降りると携帯に電話がかかってきて、なんだ?と思いながら出てみると、学校に行く時間のはずの上の子からでした。
泣きそうな声で「ママ~体操着がない~」といってます。
「落ち着いて!きょうは体育あるの?」と聞くときょうはないとのこと。
でも、体操着はいつも週明けの月曜に学校に持って行くことになっているのに見当たらないので、パニックになっていたようでした。
「体育ないなら大丈夫。帰ってから探そう。学校に忘れてきたかもしれないし。びっくりしちゃったね。」と声をかけて切りました。
たまにはこういう思いをして、早めに支度済ませておかないと困るんだ、と本人に思ってもらうのも大事だな、と思いました。
わたしが仕事を始めて、あれこれいままでのように手をかけられない部分がありますが、思ったよりこどもたちが成長していて、意外に任せるとできるということにびっくりしています。
まあ、人知れず無理していないかよく見ないととは思いますが。
赤ちゃんとママという関係から、家族の一員同士、という感じになってきている気がします。
嬉しいおどろきです。
子育てっておもしろいですね。
ゴールではなく通過点
最近仕事の話しが多くなっていますが、もう少ししたら落ち着いてくると思います。大体自分の中で消化できてきた気がしています。もう少しだけお付き合いくださいね。
仕事をしてみて、自分の能力が発揮できていると思うのは以下のような能力です。
過去の経験から、会社の意思決定の仕組みを理解している
交渉能力がある
パワーバランスを見極めて、それぞれの人に適切な対応をとることができる
傾聴の能力
目先のことにとらわれず、俯瞰した視点で全体を眺めることができる
自分ひとりでなんとかしなければいけない状況で、力を発揮できる胆力
しかしその一方で、権力闘争的なことにはまったく興味がないので、偉い人にもうっかり自由にふるまってしまったり、生意気に見える態度をとってしまったりということもあります。
正社員で、過去のキャリアを活かした職種に応募すれば、もっと高いお給料をもらえるだろうし、もっとえらそうにできるだろうなともぼんやり思ったりするのですが、そういうことをしたいのかと自分に問いかけるとやはり違うなあと思います。
現実的に、こどもが小さく、急な呼び出しによる休みとか、土日を休むとか、平日も早く帰るとか、そういうことに対応するには、人とやりとりが発生する仕事や責任があって、他人に代わってもらえない仕事だと難しいということももちろんあります。
それに加えて、やっぱり男性社会そのものの企業で正社員として仕事をすることにあまり魅力を感じません。
まるで男の子のカードバトルを見ているような学歴自慢、学閥自慢。まるで犬じゃないかと思うくらい絶対視される上下関係。ある意味女性よりもえげつないいじめや足の引っ張り合い。数字や成果のみ追い求める風潮。要領よく人の手柄を横取りし、上に媚びる人が出世しやすい風潮。
どんな仕事でもそうですが、現実の厳しい側面というものはあり、そこを乗り越えていくには心からの情熱というものが必要なのかもしれません。
自分にとって心から情熱を傾けられる対象というものが、例えば小説を書く、みたいなことなのか、ただただ人間の内面について深く考察する、ということなのか、こどものためになにかする、ということなのか、それとも他になにかあるのかわかりませんが、引き続き探し続けていきたいです。
自分としては今の仕事はやはりゴールではなく通過点なんだなと考えています。
あと、わたしが仕事をするひとつの大きい理由としては、こどもたちに、女性が働くのは普通のことだし、そのために家族で協力するのも普通のこと、と伝えたいということもあるのかもしれません。
なんでも男性が決めて、女性は従うだけなんて思ってほしくないですし。
母性と父性、女性性と男性性のバランスといってもいいかもしれません。
こどもが大きくなって、別にアーティストになるかもしれないし、専業主婦になるかもしれないし、好きな生き方を選んでくれて構わないのですが、うちのスタイルとしてはこう、あなたたちのお母さんはこういう人、というのは伝えたい気持ちがあります。
うちは特に女の子なので、母親が社会と接点を持って、男性社会でどんな風に意思決定されるか、その中でどう生き抜くか、的なことがなんとなく時々話題にのぼるのも悪くないのかもと思います。
苦の体験から豊かさを汲む
遊びのアトリエ の レオさんがインフルエンザにかかった体験をかいていらっしゃいました。
思わぬ時にやってくる病気、予定も狂うし、頭ではあれもやりたいこれもやりたいとおもっても体はついていかない。実際の身体のしんどさもインフルエンザではなかなかのものです。
普段元気な私にとって、病気になると予定が狂ったり
思い通りにいかなかったり、いろんな体の痛みを感じ
たり・・・もどかしい経験ばかりです。
昔の私ならば、インフルエンザを恨んでいたでしょうが
最近は、こういう経験も大切だなぁと思えるようになって
きました。「痛み」や「苦しみ」をきちんと受け止めている
人は人に対しての本当の優しさを持っています。
思い通りにならない経験は、大なり小なり人生のいたる
ところにあり、その経験をプラスにするのか?マイナス
にするのか?はその人次第です。
同じ苦しみでもプラスの苦しみにしていきたいと思って
ます。
「同じ苦しみでもプラスの苦しみにしたい」ということばに深く共感しました。
誰でも辛い思いはしたくないものです。でも、だからこそ思いがけず不快な体験、苦の体験はやってくるもの。
疎ましく思っても、いやだと拒否しても、来てしまったものは仕方ないですよね。
いままでさまざまな苦の体験を通して、もがき、あがいて試行錯誤した結果、こうした場合には逆に苦の本質にまっすぐ向かっていくことが、一番楽に乗り越えられると実感しています。
とはいっても苦の本質にまっすぐ向かっていくというのは、人の心理的になかなか抵抗があるものですが、向かい合えた時には清々しい気持ちになり、不安もなく、痛みはあるけれど自分の中から力があふれるような感覚を覚えます。
そんな風に生きていく自分が好きです。
わたしの中のお仕事人格
仕事をしていて、しみじみとわたしの中のお仕事人格について考えてみました。
わたしの中のお仕事人格は、頭の回転が早く、飲み込みがよく、力関係をよく見極めて適切な行動がとれるタイプです。
難しい状況、試される状況になると、アドレナリンが出て果敢に立ち向かう男前なところもあります。
その一方で論理的、合理的すぎて人間味に欠けたり、あまり他人のことを考えない、気配りの足りないところもあります。
仕事をする環境で役に立つように最適化された自分なのかもしれません。
その一方で、例えば子育ての時に役に立ったのは、もっとのんびりした方の自分です。
時間を忘れてぼーっと考え事をするのが好きだったり。こどものように笑ったりふざけたりおもしろがったり。
物事を損得で考えるのではなく、もっと大きく捉えようとします。目の前の結果(のように見えるもの)の先にあるものを見ようとします。
わからないことを恐れず、それを楽しもうとします。
役に立つということの浅さ、貧しさをよくわかっているというか、それで測れないものの豊かさを知っているというか。
久しぶりに仕事をしてみて、いまはどちらの自分も状況に応じて出しているなとおもいます。
異文化に溶け込んで架け橋となるというのは敏感さんの特技でもあるのかもしれません。
昔と違って、へんにプライドにこだわることもないし、時に柔軟に、時に無心に目の前の課題に向かっていけたらいいなとおもいます。
同時にちょっと思ったのは、やはり仕事で成果をあげながら子育てをすることの難しさです。こんなに正反対のことを求められて、両方を満たすようにするなんて至難の技だなと。
小さい子を保育園に預けながら正社員の仕事を続けているような人はそんな苦労をしているのかなと思いました。