風通しの悪さーコミュニケーションがよくとれていないと起こる問題
先日、こどもの病気で医者にかかった際、投薬ミスがあったことがわかりました。
確認したところ、実際に処方されて服用した薬でも、対象年齢も分量も問題がなく、効能も変わらないとのことで大事には至りませんでしたが、びっくりしました。
医師が指示した薬を事務の人が入力するときに間違えたのだそうです。
今度から、かかる医師や薬局を選ぶ時によく考えないといけないな、また服用の前に自分でしっかり確認しないといけないな、と思いました。
そこの医師は、対応が非常にドライで、言葉も足りない感じです。また、患者にあまり口をはさませないので感じが悪いと嫌う人も多いのですが、わたしは腕はいいからまあいいか、という感じでお願いしていました。わたしの場合、必要ならわりとはっきり物を言うこともできるので、いざという時ははっきりいえばいいだろうという思いがあったのかもしれません。
でも、わたしのその「腕がよければいい」という考えは間違っていたかもしれないな、と今回思いました。
それは、コミュニケーションの問題です。
その医師が患者に対してもよくコミュニケーションがとれていないとすると、医院の中でスタッフとの間でも、一方通行のコミュニケーションしかとれていなかったのかもしれないと思ったのです。
いわゆるトップダウン型の、スタッフが何もいえないようなコミュニケーションスタイルになっていたのではないかなと。今回、「スタッフには厳重に注意します」といっていましたが、普段からきちんとスタッフの不満や意見を聞いているのかなと気になりました。そうでないとしたら、なにかあった時に権力や力にまかせて叱責するだけでは、たぶん問題は解決しないし、また同じことが起こるような気がしました。
人手が足りないのか、ダブルチェックがきいてないのか、普段から失敗を恐れて確認が足りなくなっているのか、などなど、そのミスが起こった原因を分析してそれを解決した方がいいですよね。
ただ上から押し付けるだけのコミュニケーションは、強制型しつけと同じで、その場では相手は黙っていうことを聞くでしょうが、ただ抑圧しているだけです。そしてそういう環境では、だんだん保身のための隠蔽や嘘がはびこっていくのではないでしょうか。
信頼され、なにをいっても安全な環境が保証されてこそ、人は正直になれるのです。
今度からはなにか仕事を頼む時、買い物する時、そこで仕事をする人たちのコミュニケーションスタイル、雰囲気も注目していこうと思います。
もしかしたらそれが、その人たちの仕事の質を見極めるポイントになるかもしれないと考えています。
サッカーで初ゴール
最近サッカーがんばっている上の子ですが、先日とうとう練習試合で初ゴール!を決めました!
パパと一緒に作戦考えたり、サッカーの上手な子にコツを聞いたりしていたようです。もちろん練習を見ていると、常に積極的に攻めて、走り続けてチャンスを狙う姿がありました。
いまのところ素質として運動能力がすぐれているわけでもないし、決して足は速くないのです。よいところはボディコントロールがよく、キックの精度もわりといいところです。反射神経も悪くないとおもいます。また、戦略を考えるのは好きなようです。
どちらにしても低学年ともなると皆本気で勝ちにいくので、狙っていてもなかなか得点するのは難しいのです。
でも!
くさったりめげたり自己否定することなく、毎回「きょうこそゴールきめるぞ!」と宣言して練習に向かったり、「ねえねえゴール決めたらごほうびに缶ジュース買ってくれる?」といったりしてがんばっていました。
数日前のサッカーの試合で、ゴールキーパーに挑戦し、気合の入ったプレイをみんなにほめてもらえたこともまた、「自分ならできる!」という強い気持ちにつながったのでしょうか。
いつのまにかこんなに粘り強くあきらめずに継続的にがんばって、目標を達成する子に育ったのでしょう?
それってサッカーがどうのこうのじゃなく、人生を生きて行く上で大切な大切な力ですよね。
サッカーに関してはあまり親が先走って大きな期待をかけてもかわいそうだし、楽しく運動不足が解消されたらいいんじゃないか、くらいに思っていましたが、この日のこの子の達成した結果には感激して家族みんなでお祝いした日でした。
うそをつかないと、損なの?
毎日やることがたくさんある日常を生きる現代人のわたしたち。
その中で、ちょっとズルしてみたり、うそついてみたり、ありますよね。おおきいことじゃなくて小さなことで。
もちろんわたしも経験あります。
でも、「うそをつかないで正直に行動するなんて損、ばかみたい」という考えが世の中の主流になってしまったら悲しいな、という気持ちがあります。
特に子育て中の親として、こどもに対しての影響に無頓着な人が多いのが気になります。
そのことについて書いてみたいです。
ふとした時につきたくなる小さなうそ。
うそをついてズルをしたら、その時は得した気分になります。
でも本当に得をしているのでしょうか?
うそをつかないことは損していることなのでしょうか?そこにはなんの価値もないのでしょうか?
うそをついて、ばれなかったとしても、うそをついて自分がズルをしたことは自分が知っています。自分はごまかせません。自分はうそをつくような人間なんだ、という認識は自分を低める行為です。
その事実は無意識に蓄積されて自己肯定感を下げるのではないでしょうか。
また、うそには隠蔽行為がつきものです。うそがばれないように口裏合わせをしなくてはなりません。そのためにうそのストーリーを作り上げて、自分や家族に信じ込ませなくてはいけません。
こどもに口裏合わせをしてもらわなくてはならなくなります。こどもがなぜ?と聞いてきたらどう説明しましょうか?
うそをついた方が得だからね、正直に行動すると損をするよ、と教えるのでしょうか。小さいうそならついてもいいんだよ、と教えるのでしょうか。いかにもそれらしいでっちあげのストーリーを信じ込ませて丸め込めばいいと考えるのでしょうか。
なので、2つめの問題はこどもに与える影響です。
うそつきなこどもに育って欲しくない、とおもっていてもこうした隠蔽工作に加担させることで、実はこどものうそを親公認で推奨してしまっています。
3つめは生き方の問題なので、これは誰にでもお勧めできるわけではないかもしれませんが、わたしの思うことを書いてみます。
昔から「お天道様に恥ずかしいことはしない」「天に恥じないよう生きる」というような言い方がありますね。
これは、そもそも自分で高い倫理基準を持ち、誰かが見てる、見てないに関わらず気高い生き方をしよう、という意味だと考えています。
なぜそうした方がいいか、ということはなかなか表現が難しいですがやってみます。
わたしが思うのは、例えば人生の危機に直面した時に、人はいつもとは違うモードで生きざるをえなくなります。
普段の日常モードでは、小さな損、得、という価値観が正常に働くのですが、非日常モードでは、そうしたことがひっくりかえってしまうのです。魂の奥に入って深くいろいろなことを考え直さざるを得なくなる、そんな時に、ステータスとか、自分が他人から見られるイメージだとか、優越感、そういうものはなんの助けにもなりません。
その時に頼りになるのは素の自分のみ。
自分でできることをやって、あとは運を天に任せるしかない、そんな状況で自分を信じて崖から飛びおりるような勇気が必要とされます。
そう、そこで自分を信じられる根拠、それが「自分は普段から天に恥じないように生きている」と思えることだと思うのです。
自分はいざというとき天に助けてもらえる存在かどうか。
その基準はさまざま、その人なりのものでいいとおもいますが。とにかく自分なりによくやっている、と思えることがポイントだとおもいます。よくないとおもいながらやっていることは少ない方がいいですね。
宗教というものの取り扱いが難しい現代ですが、自分の中の「神」、自分の考える「天」という視点はどんな時代にもなくなることはありません。
時に小さな生存競争の中の損得、という価値観から離れて、そんな大きい視点、俯瞰した視点ももってみるといいのではないかとおもいます。
巻き寿司作りに挑戦!
時々「夕飯のお料理をひとりで作りたい!」といいだす上の子ですが、きょうはお料理の本を見て、巻き寿司とれんこんの素揚げが作りたいといいました。
お野菜が足りないのでわたしが一品追加することにして、計画、買い物とお料理をお願いすることにしました。
まず、本を見て買ってくるもののリストを作ってもらいます。
それから、リストを持ってお買い物に行きます。わたしも一緒にいったのですが、これを探してきて!と頼んだら、お店の人に場所を聞いたりしてちゃんとみつけていました。
材料を買ってきたら、自分で本を見てどんどん進めてもらいます。わからないところはサポートしました。
合わせ酢を作って酢飯を作ったり、炒り卵を作ったり、きゅうりを切ったり他にはツナマヨやかにかま、でんぶを入れました。
実はわたしも巻き寿司なんて自分で巻いたことがなく...。台所を探したら巻き簾は出てきたんですけどね。
そして、できあがりはこれ!
巻く時の力加減が弱かったのか、具が多すぎたのか、まとまりがいまいちでしたが、巻き寿司を自分で作れたことに、本人も家族も大感激!
すごいねすごいねおいしいね、と食べました。
ちなみにれんこんの素揚げは時間がなかったのでまたこんどになりました。
この本にのっていたレシピで作りましたよ。
NHKゴー! ゴー! キッチン戦隊クックルン おうちでごちそう (教養・文化シリーズ)
- 作者: 市瀬悦子,井部奈生子,NHK出版
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2016/01/18
- メディア: ムック
- この商品を含むブログを見る
こどもの中の七色の未来を尊重する社会へ
こどものいじめや学級崩壊のメカニズムについても、的確な分析をされている、増田修治さんが座間の事件の加害者、被害者双方の背景にある「孤独感」についてコメント出しているのを見つけました。
孤独の正体は「自分は意味のない存在だ」という「不全感」だと考えます。彼らは「そのままでOK」と認められたことがありません。「学校に行けるといいのに」「勉強すればいいのに」と「もっとこうすれば」を突き付けられ、クリアできない自分を「ダメな人間」と感じる。それが不全感につながり孤立してしまう。
ありのままの姿を見てもらえず、認めてもらえず、自分がここにいてもいいとおもえないこどもはたくさんいます。
たくさんのこども(大人も)それぞれに個性や特徴があり、学校の勉強が向いている子もいればそうでない子もいる。
親が「勉強していい大学にっていいエリートになる」という道筋しか頭に描けない、思考や精神の貧しさを持っていると、そこにあてはまらないこどもはただの不良品扱いです。
不全感の形成は、小学生から始まっています。ある小学5年生の男の子は、母親の財布からお金を盗み仲間にジュースなどをおごることで、グループのリーダーになりました。他者をコントロールすることで得られる「全能感」を求めたのです。これは、強い不全感の裏返しだといえます。
ありのままの自分を認めてもらえないことは想像を絶する辛さです。それをなんとかしようと必死になった結果、こうした事件を起こしてしまうのでしょう。
しかも、問題を起こさないいい子も目立たないだけで心に闇を抱えていると増田さんはいいます。
「おとなしくていい子」と言われる子たちも、不全感を抱きがちです。学校では「中間層」。「いい子でいて」と普通を求められながら、「もっとできないの?」と普通を否定される。しかも、成績上位者や問題のある子はかまってもらえるのに、放置されやすい。この「中間層」の孤独を大人は注視すべきでしょう。
おとなしくていい子の中には過剰適応の子も含まれるでしょう。
それは決して、ありのままの自分を好きでいて、毎日幸せに生きるということではないのです。
現代に生きる人々が、さまざまな多様な生き方の素晴らしさに気づけるようになりますように。そしてこどもそれぞれの個性を発見し、それを素晴らしいと気づき、その価値を本人に伝えられるような社会になっていきますように。
サッカーの試合
こどものサッカーの大会に参加してきました。
上の子は最近、サッカーがすごく楽しいらしく、練習の時も懸命に走ってボールを追う姿があります。
それでもなかなか得点に絡んだり、シュートを打つまではいかないのですが、うまくいかなくてもそのモチベーションが下がらず、毎回がんばっています。
試合のような機会でも、読書好きでどちらかといえばインドア派のイメージの子が、懸命に走り続ける姿を見られるだけでなんだか、すごいなあと感動しています。
今回の試合では、ゴールキーパーにチャレンジし、何回かすぱっときれいにボールをキャッチできたので気をよくしたらしく、なんとPK戦でゴールキーパーを希望。
「えーボールキャッチの練習なんて普段全然してないのに」とどきどきする家族の気も知らず、果敢にチャレンジしていました。
胸くらいの高さに遠慮なく飛んでくるボールを2回ほどとれず、悔しそうにした後、なんと次にその高さできたボールはバンとはたいて止めました。
まあ、ちゃんとしたトレーニングもしてなかったのでとれたりとれなかったりで、PK戦には負けてしまったのですが、けっこうみんなが「ナイスプレイ!」と声かけてくれてうれしかったみたいです。
親としては、なにしろ小さい頃の敏感気質で慎重派の様子を目にしてきているので、そのハートの強さに感動です。
相手が本気で目の前にばんばんシュートしてくるし、みんなが注目している中、ゴールキーパーを志望して、あせりもせずベストを尽くすプレイをした、そのことに成長を感じました。
それ以外でも、シュートは打てなかったけど、最後まであきらめずボールにさわろうと走り続けていました。
入賞はできなかったのですが、チームワーク賞のメダルをもらい「次は個人で賞をとりたい!」と大言壮語していました。
その前向きな姿勢が嬉しいです。
下の子は、身体を動かすのも好きで運動能力は高そうなのですが、どうも普段からサッカーに身が入らない様子で、試合となると特にギャラリーが多いため余計にテンションが低くなってなんだかかわいそうでした。
運動会でのかけっこやリレーの方が楽しそうにしていたので、走る方に切り替えた方がいいのかな。始める時は本人がやりたいといって始めたけれど、上の子につられただけだったのかも。
それぞれの個性に合わせてよいところを伸ばしてあげられたらとおもいます。
苦手なことにとびこんでみる
先日、昼間の空き時間にバイトでもしてみようかとおもい、お弁当作りの仕事の面接を受けました。
面接を受けるなんてひさしぶりでものすごい緊張しました。
そのめちゃくちゃ緊張した面接の席で、「できたお弁当を運ぶことがあるのですが、車の運転はできますか?」と聞かれました。
実はわたしは免許はあるのですが、運転は大の苦手でここ十数年運転していないペーパードライバーです。いま運転しろといわれたら恐怖のあまり「あなたは命が惜しくないのですか?」といいそうです。
しかし、面接を受けているという立場上すべてに前向きな姿勢を示さねば、とおもったその時のわたしは正直に現状をお話しした上ですべてをかなぐりすてて「えーと、でも必要ならやってみます!」と答えていたのでした。
後から考えて、その時のことがおかしくて、笑えて仕方ありません。
うまく説明できるか自信がありませんが、それは無理してできそうもないことをいってしまった、というのとも違うのです。
自分の中で絶対無理!とおもっていた「運転」というハードルを全身全霊で飛び越えようとした時、緊張とかプレッシャーとか不安とかはすべてどこかへいってしまっていました。
その時自分で自分に「もしかしてやってみたらできる?」と問いかけて、「できる...かも!」と感じて自分で出したその答えは、意外にも自分でことばにしながらわくわくするものでした。
「気に入られないといけない」とか「ちゃんとしなければ」というような、自分を小さい枠にはめるようなきもちがぱーんと飛んで、そこに入りきらない生命力があらわれたのでした。
苦手なことに、あえてプライドや立場をすべて捨てて赤ちゃんのように飛び込んでみる、というのはなかなかミラクルな体験だな、とおもいました。
ちなみにそのバイトには結局採用されなかった、というオチでこの話は終わります。