Follow your bliss

読書をしながら、子育てしながら、お仕事しながら、人間の内面についていろいろ考えたりする毎日

外見と中身

いま仕事の研修のため、毎日スーツを着ているのですが、ご近所の方や、幼稚園で会う顔見知りのママたちからすると、いままでとはすごく印象が違うみたいです。

 

ジーンズにスニーカーの時に比べて若干「お高め」に格付けされているようなのが、鼻が高いような、いまいましいような、です。

 

「ほほー。きみも仕事などするのかい。」という声が聞こえてきそうです。(たぶん考えすぎですね。)

 

研修期間が終わってスーツで出歩くことがなくなると、そういう視線もまた元に戻るんでしょうか。

 

親しくしていて、わたしの人間性を知っている人たちはあまり気にしてないところを見ると、あまり知らないからこそ印象に左右されるのでしょうね。

 

印象って不思議ですね。

 

わたしは以前も仕事していたし、しばらく仕事していなかった期間もそういう要素は自分の中にあったはずなのですが...。

 

なんていうか、わたしの中のお仕事人格にスポットライトがあたるというか...。

 

周りの人も「お仕事する人なんだな」という目で見るし、自分も「お仕事するのに適した自分でいないと」と思ったり。まあそれが共同幻想といえなくもないですが。

 

複雑な要素がいろいろあるわたしの人格のすべてを一度に表現することは土台無理なことなのでしょうけど、その時その時で表に出てくるものがいろいろあるということですね。

 

そんなことをいいつつ、わたしも人やものごとを見た目で判断しているのでしょうね。

 

ぱっと見た第一印象とは違う中身を想像する心の余裕を大切にしたいです。

無上の喜びを追求して生きるということ その1

引き続きジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」より

 

いつも見えない手に助けられているものだから、とうとうひとつの迷信を抱いてしまいましたよ。それは、もし自分の至福を追求するならば、以前からそこにあって私を待っていた一種の軌道に乗ることができる、そして、いまの自分の生き方こそ、私のあるべき生き方なのだ、というものです。

 

そのことがわかると、自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。心配せずに自分の至福を追求せよ、そうしたら思いがけないところで扉が開く、と私は自分に言い聞かせるのです。

ジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」より

 

 このブログのタイトルFollow your blissもこのジョーゼフ・キャンベルのことばをいただいたものです。日本語では「あなたの無上の喜びを追い求めなさい」とか「あなたの至福の思いを追い求めなさい」という意味になるかとおもいます。

 

このことばを真意を説明するのはなかなか難しいですが、キャンベルのことばを引用しながらいくつかの記事に分けて書いてみようとおもいます。

 

逆に、自分にとっての無上の喜びを追求したことのない人間とはどんな人か?ジョーゼフ・キャンベルはこんなエピソードを紹介しています。

 

私は結婚するまで、昼食と夕食はたいてい町のレストランでとっていました。ブロンクスヴィルでは木曜の晩は家庭のメイドさんが休みなんです。だから、多くの家族がレストランで夕食をとる。

 

ある晩のこと、私は行きつけのレストランにいました。隣のテーブルには、父親と、母親と、十二歳くらいのやせっぽちの男の子が座っていた。

 

「トマトジュースを飲みなさい」と、父親が男の子に言いました。「飲みたくない」と男の子がいいました。すると父親はもっと大きな声で、「トマトジュースを飲みなさい」と言いました。そしたら母親が「いやだということを無理にさせないで」と言ったんです。

 

父親は彼女をじっと見て言いましたーーー「この子は、好きなことだけして人生を渡るわけにはいかない。好きなことだけしてたら、死んでしまうぞ。おれを見ろ。一生のうち一度だってやりたいことをやったことはないんだ」

 

いまでもこういう人、親はたくさんいますよね。ある種の恐怖にコントロールされているというか。好きなことをしたら生きていけないというマインドコントロールにかかっているというか。

 

続きます。

 

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

木の上の二羽の鳥

ジョーゼフ・キャンベルという神話の研究者の方をみなさんご存知ですか?


スターウォーズは、この人の講義にインスパイアされたジョージ・ルーカスが、神話的構造を取り入れたことで、広い層に受け入れられたといわれています。


「神話の力」という本は対談で読みやすいですが、話されている内容は深く、お気に入りの本です。お気に入りすぎてなかなかどこを紹介したらいいか迷いますが、その中からひとつ紹介します。

 

 キャンベル (一部略)ヘラクレイトスは、神にとってはあらゆるものが善であり、正であり、義であるが、人間にとっては、正しいものもあれば、正しくないものもある、と言っています。人間である限り、だれでも時間と決断の領域にいる。人生の問題のひとつは、その両者をわきまえて生きること、つまり、「私はなにが中心であるかを知っている。善と悪とは単に時間領域における分離逸脱に過ぎず、神の目から見れば、全く同じものであることを知っている」と言いながら生きることです。

 

モイヤーズ それはが「ウパニシャッド」の基本理念なんですねーー「女ではなく、男でもなく、中性でもない。いかなる肉体をとろうと、その肉体を通して働く」という。

 

キャンベル そのとおりです。だからイエスも言っています。「裁いてはならない。裁けばあなたが裁かれるからだ」。つまり、善悪二分の考え方をする前の、楽園の立場に戻りなさい、ということです。教会の説教壇からそこまで教える聖職者はいないでしょう。しかし、人生における偉大なチャレンジのひとつは、自分から見て最も憎らしい人なり、行為なり、条件なりに対して「オーケイ」と言うことです。

 

モイヤーズ 最も憎いものに?

 

キャンベル その種のものにはふたつの面があります。ひとつは、行動の分野におけるあなたの判断。もうひとつは、哲学的な観察者としてのあなたの判断です。だれも、毒ヘビなどいてはならない、といういうことはできません、生命界とはそういうものなのです、しかし、行動の分野において、あなたはだれかに嚙みつこうとしている毒ヘビを見たら、それを殺します。それは蛇に対してノーと言っているのではない。その状況に対してノーといっているのです。「リグ・ヴェーダ」のこんなすばらしい詩があります。「木の上に」ーー生命の木、あなた自身のいのちの木の上にーー「二羽の鳥がいる。大の仲よしだ。一羽は木の実を食べ、もう一羽は何も食べずに眺めている」さて、木の実を食べている鳥は実を殺しているのです。生命は生命を食うことによって成り立つ。それが生命の本質です。

 

意味が通じるよう長めに引用しましたが、この最後のところの木の上に二羽の鳥がいる、という構図、これが自分の心の中に印象深く刻まれています。

 

人間はこの世界に生きている以上、生命として他の生命を食べるということから逃れられない。それは実際の食事というだけでなく、やはりひとつの生命を維持するため、その生命を守らないと生きていけない、ということだとおもいます。

 

わたしはもう一羽の鳥の「何も食べずに眺めている」傾向が強いです。ぼーっと人間を観察していろいろ大きいことについて考え事をするのが好きなので。

 

もちろん人間にとってその要素も非常に大切で、それがなければただ自分より弱いものをとって食べる動物と同じです。

 

 しかし「なぜ生きるのだろう?」などと考えているばかりではこの世界を生き抜いて(survive)いくことはできません。他の存在に対して、まず自分の生命を大切にして生き抜くことを肯定するなら、自分に対してもそうするべきです。

 

 現実問題に対処するのが苦手な自分に、時々言い聞かせるようにしています。

 

 

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

 

15分で一汁一菜!

 とにかく夕飯はぱぱっと作りたいわたしにとって、夢のような本を発見したのでご参考までに紹介しておきます。

 

15分で一汁一菜 毎日のごはんはこれでいい! (講談社のお料理BOOK)

15分で一汁一菜 毎日のごはんはこれでいい! (講談社のお料理BOOK)

 

 

本当、「これでいい!」です。簡単に作れておいしそうなレシピがたくさん紹介されています。

 

わたしにとって食事って栄養がとれていて、家族でおいしいねって食べられることが大事なので。

 

つくりおきおかずの本も買ってみて、悪くなかったのですが、計画的に一週間分用意する、というのはわたしにはあまり向いてない気がするので、こちらは気が向いた時に「これおいしそう!」と思ったものを作って、ある時は食卓に追加して出す、という使い方になりそうです。

「適当さ」のメリット

仕事を始めてみて、まずは家事、育児と仕事との両立が目下の課題です。

 

しかし、意外とわたしの性格には合っているかも、ということがわかってきました。

 

その理由はわたしの「適当さ」です。(堂々というのもどうかとおもいますけど...)

 

いままで専業主婦という立場では、家事にそれほどクオリティを求めない、ということは、主婦としての能力が高くない、ということなのだろうかと思ったりすることもありました。

 

でも、自分の中で家事は最低限できればいいもので、余った時間でこどもと楽しく過ごす方が優先順位が高いことでした。

 

こどもに時間をかけてしっかり向き合っていろいろな遊びを一緒にしたのは楽しかったし、こどもにとってもよかったのではないかとおもっています。

 

話を戻して、働き始めてみてその、「家事にそれほどのクオリティを求めずどれもそこそこで回す」ということがワーキングマザーにとっては必須スキルといっても過言ではないということがわかってきました。

 

あれもこれも完璧にこなそうとすれば、自分が倒れそうになります。

 

しかし、こどもにとっても、自分やパートナーにとってもそれは一番避けたいことです。

 

食事の献立は一汁一菜ベースでいいんじゃない、とか、部屋の中が多少散らかっててもまあいいか、と思えるわたしってワーキングマザーに向いてるかも、と密かに感じています。(家族が同意してくれるかどうかはわかりませんが...)

 

一応自分のために釈明しておきますが、「適当」というのはいい加減というわけではなく、大事なところはしっかり押さえて、後はそれほど力をかけずにメリハリつけてやる、ということです。念のため。

 

そしてその分の時間で、これからも家族で楽しく、時にだらだらと過ごす予定です。

年収は自分の値札??

働き始めるにあたって、楽しみだなという気持ちや、できるかなという不安、ちゃんとしなければという気持ちなどいろいろ交錯しております。

 

その中で、収入と自己評価についていろいろおもったことを書いてみます。

 

思えば、若かりし頃、おじさまや同年代の男性と張り合って仕事をしていた時、かなり収入のことを鼻にかけていた気がします。

 

学生時代、特にもてるわけでもなく、スポーツができるわけでもなく、おしゃれにも疎く、ひたすら地味に目立たないようにしていましたし、いわゆるてきぱきと気を利かせてお金を稼ぐ、ということを特に苦手に感じていたので、その自己否定感の反動だったのでしょう。

 

わたしだってやればできるんだから、という気持ちが先走り、嫌な奴だったとおもいます。

 

で、具体的に何が得意だったかという中身を点検してみると、一人前に稼いでいるんだからね、ということがかなり多くを占めていたかと思うのです。

 

とりわけ高収入だったわけではないですが、正社員で残業代、賞与もいれるとそこそこいただけました。その年収で家族を養っている人もたくさんいるはずです。

 

派遣やアルバイトで稼いでいた時も、自分の自由に使えるお金があるというのはいい気分でした。

 

翻って育児に追われる主婦の立場では、いくら忙しくてもがんばってもお給料がもらえません。なんとなく贅沢するのは気がひけるものです。お金を使うことに躊躇して使わないで悶々としたり。使うにしてもいくらまでが適正なのか、はっきりした基準がないので、お金を使ってもなんだかこれでいいのかもやもやする気持ちがありました。

 

もちろんベースの考え方として、人間の価値がお金で決まるものではないことははっきりと認識しています。

 

家事や育児がお金にならないとはいえ、尊い仕事だということも。

 

それでも、今回仕事を始めるにあたって感じる「気分の張り」の中にはやはり「わたしだってお金を稼げる、それなりの価値のある存在なのだ」という気持ちがあります。

 

もちろんそれだけじゃなくて、仕事を通じて人の役にたてたらいいな、よろこんでもらえたらいいな、という社会的なつながりを持つ喜びもあれば、自分でお金を稼ぐということである程度の経済的な自立ができる、自由を手にいれる、という喜びもありますが。

 

どうしても「収入=自分の値札」みたいな社会通念というか、自分の中の観念というものが根強くあるのだな、ということを自分によく言い聞かせておきたいと思います。

霜柱の科学絵本

 

しもばしら (かがくのとも絵本)

しもばしら (かがくのとも絵本)

 

 

先日霜柱をみつけて大喜びしていたこどもたちのために、この本を図書館で見つけて借りてみたところ、とてもわかりやすくおもしろかったです。

 

霜柱を自分で作ってみるやり方も書いてあって、こどもたちは「やりたいやりたい!」といっていました。

 

こんどチャレンジしてみます。

 

小さめのカップ麺の入れ物に、水、土を入れて一回り大きい入れ物に新聞紙で断熱して冷凍庫に入れるそうです。