体操着ない事件
今朝通勤の電車を降りると携帯に電話がかかってきて、なんだ?と思いながら出てみると、学校に行く時間のはずの上の子からでした。
泣きそうな声で「ママ~体操着がない~」といってます。
「落ち着いて!きょうは体育あるの?」と聞くときょうはないとのこと。
でも、体操着はいつも週明けの月曜に学校に持って行くことになっているのに見当たらないので、パニックになっていたようでした。
「体育ないなら大丈夫。帰ってから探そう。学校に忘れてきたかもしれないし。びっくりしちゃったね。」と声をかけて切りました。
たまにはこういう思いをして、早めに支度済ませておかないと困るんだ、と本人に思ってもらうのも大事だな、と思いました。
わたしが仕事を始めて、あれこれいままでのように手をかけられない部分がありますが、思ったよりこどもたちが成長していて、意外に任せるとできるということにびっくりしています。
まあ、人知れず無理していないかよく見ないととは思いますが。
赤ちゃんとママという関係から、家族の一員同士、という感じになってきている気がします。
嬉しいおどろきです。
子育てっておもしろいですね。
ゴールではなく通過点
最近仕事の話しが多くなっていますが、もう少ししたら落ち着いてくると思います。大体自分の中で消化できてきた気がしています。もう少しだけお付き合いくださいね。
仕事をしてみて、自分の能力が発揮できていると思うのは以下のような能力です。
過去の経験から、会社の意思決定の仕組みを理解している
交渉能力がある
パワーバランスを見極めて、それぞれの人に適切な対応をとることができる
傾聴の能力
目先のことにとらわれず、俯瞰した視点で全体を眺めることができる
自分ひとりでなんとかしなければいけない状況で、力を発揮できる胆力
しかしその一方で、権力闘争的なことにはまったく興味がないので、偉い人にもうっかり自由にふるまってしまったり、生意気に見える態度をとってしまったりということもあります。
正社員で、過去のキャリアを活かした職種に応募すれば、もっと高いお給料をもらえるだろうし、もっとえらそうにできるだろうなともぼんやり思ったりするのですが、そういうことをしたいのかと自分に問いかけるとやはり違うなあと思います。
現実的に、こどもが小さく、急な呼び出しによる休みとか、土日を休むとか、平日も早く帰るとか、そういうことに対応するには、人とやりとりが発生する仕事や責任があって、他人に代わってもらえない仕事だと難しいということももちろんあります。
それに加えて、やっぱり男性社会そのものの企業で正社員として仕事をすることにあまり魅力を感じません。
まるで男の子のカードバトルを見ているような学歴自慢、学閥自慢。まるで犬じゃないかと思うくらい絶対視される上下関係。ある意味女性よりもえげつないいじめや足の引っ張り合い。数字や成果のみ追い求める風潮。要領よく人の手柄を横取りし、上に媚びる人が出世しやすい風潮。
どんな仕事でもそうですが、現実の厳しい側面というものはあり、そこを乗り越えていくには心からの情熱というものが必要なのかもしれません。
自分にとって心から情熱を傾けられる対象というものが、例えば小説を書く、みたいなことなのか、ただただ人間の内面について深く考察する、ということなのか、こどものためになにかする、ということなのか、それとも他になにかあるのかわかりませんが、引き続き探し続けていきたいです。
自分としては今の仕事はやはりゴールではなく通過点なんだなと考えています。
あと、わたしが仕事をするひとつの大きい理由としては、こどもたちに、女性が働くのは普通のことだし、そのために家族で協力するのも普通のこと、と伝えたいということもあるのかもしれません。
なんでも男性が決めて、女性は従うだけなんて思ってほしくないですし。
母性と父性、女性性と男性性のバランスといってもいいかもしれません。
こどもが大きくなって、別にアーティストになるかもしれないし、専業主婦になるかもしれないし、好きな生き方を選んでくれて構わないのですが、うちのスタイルとしてはこう、あなたたちのお母さんはこういう人、というのは伝えたい気持ちがあります。
うちは特に女の子なので、母親が社会と接点を持って、男性社会でどんな風に意思決定されるか、その中でどう生き抜くか、的なことがなんとなく時々話題にのぼるのも悪くないのかもと思います。
苦の体験から豊かさを汲む
遊びのアトリエ の レオさんがインフルエンザにかかった体験をかいていらっしゃいました。
思わぬ時にやってくる病気、予定も狂うし、頭ではあれもやりたいこれもやりたいとおもっても体はついていかない。実際の身体のしんどさもインフルエンザではなかなかのものです。
普段元気な私にとって、病気になると予定が狂ったり
思い通りにいかなかったり、いろんな体の痛みを感じ
たり・・・もどかしい経験ばかりです。
昔の私ならば、インフルエンザを恨んでいたでしょうが
最近は、こういう経験も大切だなぁと思えるようになって
きました。「痛み」や「苦しみ」をきちんと受け止めている
人は人に対しての本当の優しさを持っています。
思い通りにならない経験は、大なり小なり人生のいたる
ところにあり、その経験をプラスにするのか?マイナス
にするのか?はその人次第です。
同じ苦しみでもプラスの苦しみにしていきたいと思って
ます。
「同じ苦しみでもプラスの苦しみにしたい」ということばに深く共感しました。
誰でも辛い思いはしたくないものです。でも、だからこそ思いがけず不快な体験、苦の体験はやってくるもの。
疎ましく思っても、いやだと拒否しても、来てしまったものは仕方ないですよね。
いままでさまざまな苦の体験を通して、もがき、あがいて試行錯誤した結果、こうした場合には逆に苦の本質にまっすぐ向かっていくことが、一番楽に乗り越えられると実感しています。
とはいっても苦の本質にまっすぐ向かっていくというのは、人の心理的になかなか抵抗があるものですが、向かい合えた時には清々しい気持ちになり、不安もなく、痛みはあるけれど自分の中から力があふれるような感覚を覚えます。
そんな風に生きていく自分が好きです。
わたしの中のお仕事人格
仕事をしていて、しみじみとわたしの中のお仕事人格について考えてみました。
わたしの中のお仕事人格は、頭の回転が早く、飲み込みがよく、力関係をよく見極めて適切な行動がとれるタイプです。
難しい状況、試される状況になると、アドレナリンが出て果敢に立ち向かう男前なところもあります。
その一方で論理的、合理的すぎて人間味に欠けたり、あまり他人のことを考えない、気配りの足りないところもあります。
仕事をする環境で役に立つように最適化された自分なのかもしれません。
その一方で、例えば子育ての時に役に立ったのは、もっとのんびりした方の自分です。
時間を忘れてぼーっと考え事をするのが好きだったり。こどものように笑ったりふざけたりおもしろがったり。
物事を損得で考えるのではなく、もっと大きく捉えようとします。目の前の結果(のように見えるもの)の先にあるものを見ようとします。
わからないことを恐れず、それを楽しもうとします。
役に立つということの浅さ、貧しさをよくわかっているというか、それで測れないものの豊かさを知っているというか。
久しぶりに仕事をしてみて、いまはどちらの自分も状況に応じて出しているなとおもいます。
異文化に溶け込んで架け橋となるというのは敏感さんの特技でもあるのかもしれません。
昔と違って、へんにプライドにこだわることもないし、時に柔軟に、時に無心に目の前の課題に向かっていけたらいいなとおもいます。
同時にちょっと思ったのは、やはり仕事で成果をあげながら子育てをすることの難しさです。こんなに正反対のことを求められて、両方を満たすようにするなんて至難の技だなと。
小さい子を保育園に預けながら正社員の仕事を続けているような人はそんな苦労をしているのかなと思いました。
影絵遊びとなすびー
今朝、上の子がお布団の中で、手鏡を使ってスタンドの光を天井に映して、影絵を作って遊んでいました。
最近わたしが仕事で手一杯で、なかなかこどもの知的な発達にまで頭が回らず、申し訳ないと思っていましたが、自発的にいろいろやってるんだなと感心しました。
虹色教室の奈緒美さんも以前記事でおっしゃってたかと思いますが、親がなにかに夢中になって打ち込む姿って、それだけでこどもになにか伝わっているのかもしれないなって思いました。
年齢的にも、ちょうど自立し始める時期にあたっていたのかな。
こういうのってやってみないとわからないものですね。
下の子は、わたしが研修終わって仕事始めた話しをしたら「はやくなすびーもらえるといいね」というのでなにかと思ったら、ボーナスのことだそうです。
こんなふうに仕事について少しイメージすることもいいかなと思いました。
無上の喜びを追求して生きるということ その4
無上の喜びを追い求める生き方、そのヒントはどこにあるのでしょう?
モイヤーズ 永遠の生命の泉、すぐそこにある至福の泉からどうやって汲めばいいか。なにかアドバイスを。
キャンベル 私たちはいつもいろいろの経験をしていますが、そのうちふっとそれを感じることがある。自分にとって無上の喜びがどこにあるかを直感する。それをつかまえることです。その先がどうなるかは、だれにもわからない。自分のことは自分で見極めるよう努力することです。
モイヤーズ 先生がご自分の至福を知ったのはいつですか。
キャンベル そうですね、子供のときでした。私はまっしぐらに生きて、だれの干渉も受けませんでした。家族は私がほんとうにやりたいと深く望んでいることをするようにと、常に助けてくれました。私は、人生に問題があるということにさえ気づきませんでした。
モイヤーズ 私たちは親として、どうしたら子供たちが自分の至福を見つけるのを手伝えるんでしょう。
キャンベル 自分の子供をよく知った上で、注意深く見守ることです。手助けはできますよ。私は、セイラー・ロレンスで教えていた頃、学生のひとりびとりと少なくとも二週間に一回、30分かそこら話あったものです。学生が読んでいるはずの本の話などしているうちに、突然、その学生が真剣な反応を示しているものに突き当たる。
すぐわかるんです。目がパッと開いて、顔つきが変わる、人生の可能性がそこに開けたわけです。
私は心のなかで、「この子が途中で投げ出さなければいいが」と祈るだけです。投げ出すかもしれないし、投げ出さないかもしれない、しかし、もし投げ出さずに食いついていくなら、その子はその部屋で自分の人生を見つけたことになります。
この「はっとする瞬間」というのは、なかなかことばにしづらいですが、わたしにも経験があるし、こどもたちもこうした反応をすることがあります。
たくさんありすぎて、その中のどれなのか、という問題はありますが....。
でも、そうした瞬間を見逃さず、その子自身がその喜びを追求することを邪魔しないということ、教育ってそのひとことに尽きるのかなと思ったりします。
- 作者: ジョーゼフキャンベル,ビルモイヤーズ,飛田茂雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/06/24
- メディア: 文庫
- 購入: 9人 クリック: 70回
- この商品を含むブログ (61件) を見る
こどもたちの様子
わたしが仕事を始めて約一ヶ月。先週はインフルで家にいたり、連休もあったりで、こどもたちは存分に母親に甘えることができて満足そうでした。
いまのところ、学童保育や幼稚園の預かりが嫌だと泣かれることもなく、ママ仕事にいかないでといわれることもなく、いい感じにスタートをきれたようです。
上の子は特に、一度嫌だといいだすとてこずることが予想されたので、最初は学童保育に行く日を週2日ほどに設定しました。行く前は「行きたくないなあ」とぼそぼそいっていました。それは大人でも同じ状況だったらいやだろうなとおもいます。学童は学童で、来ているこどもたちで関係性ができあがっているところへいきなり入っていくわけですから。
他の時間的な都合もあって、最初の一ヶ月は親に手伝いを頼み、週2回はばあばがきてくれる体制を整え、6時限で、学童で過ごす時間の短い日など、行きやすい日に週2日学童保育に行くことにしました。
行ってみると、同じクラスのしっかりものの女の子たちがいろいろ教えてくれたり、学童に行くにもクラスの友達がみんな一緒に行ってくれたり。(たまたま家の方角が、学校から学童保育に向かう通学路にあたっていたので、いままでも学童メンバーと帰りに一緒になることが多かったようでラッキーでした。)
そして、学童の職員の方でもひとり、きめ細かくみてくださる方がいることがわかり、わたしも安堵です。
本人は「学童ってすごくいい、だっておやつがいろいろ選べてたくさん食べられるし、マンガだって読めるし、だれも宿題やれっていわない」とお気に召したようで一安心です。
下の子の方はといえば、幼稚園の預かり保育はもともと時々いっていたし、園自体、小規模で先生の目がこどもたちに行き届いている感じなのでわたしも安心ですし、こどもも楽しく通っています。
下の子は4月から小学校に上がるので、スムーズに馴染めるかどうかよく見ていないと、とは思っていますが、同じ幼稚園からの友達もたくさんいるし、朝は上の子と一緒に学校に行けるし、学童も上の子と一緒だし、本人は新しいランドセルや筆箱が届いたのを眺めてうれしそうにしていて、いまのところなんとかだいじょうぶそうかなと感じています。