Follow your bliss

読書をしながら、子育てしながら、お仕事しながら、人間の内面についていろいろ考えたりする毎日

きょうの発見

きょうもピアノを弾いていました。

 

自分の内側と向き合いながら、どうしたら自由に、いまこの瞬間の響きを全部楽しみながら弾けるか考えていました。

 

「間違えたり、へんな和音が鳴るとびくっと萎縮してしまう自分。」

「誰もいなくても、他人の視線を意識してしまって、ほめられるようにひかなくちゃとおもう自分。」

「間違いなく正確にひかなくちゃという自分の中の思い込み。」

 

そんな自分がいるなあと思いながら弾いていると、突然発見がありました。

 

楽しんで弾こうとする自分にストップをかけている自分がいる!

 

「正確に弾けない、よく間違う、へんな和音を出してしまう、そんな自分はピアノを楽しんで弾く資格がない」そんなふうにおもってダメだししている自分がいました。

 

なるほど。それでは一瞬一瞬を楽しんで弾けるわけがありませんね。

 

間違うのもいい、ゆっくりになるのもいい、拙くてもいい、そう言い聞かせながらゆっくりと弾くと、聞こえてくる響きの豊かさが全然違います。それはとっても贅沢な時間と空間。

 

 

自分の中に染み付いた思考習慣は、気づいたからといって一朝一夕になくなるわけではないけど、少しずつ自由になっているとおもうととてもいい気分。

 

またちょこちょこピアノに向かおうと思っています。

 

下手でも楽しんで弾いていいんだ!というのはわたしにとって世界がひっくり返るくらいの発見でした。

ほわっとしたい

シリーズ記事の更新も終わり、やっと2017年初めの記事を書いています。

 

昨年はいろいろ新しいことを始めて、少し慌ただしかった1年でした。おかげさまで年末年始はゆっくりして、今年はブログの更新もゆったりマイペースでやっていければと考えています。

いまのところ週に1本くらいの記事にプラスαで軽い記事が入ったり入らなかったりという感じで考えています。

 

タイトルにもかいた「ほわっとしたい」ということなのですが、まだ自分の中ですっきりまとまってないのですがとりあえず書いています。

できるだけ生活はシンプルをこころがけて、不要なことはできるだけしないように工夫しているわたしですが、ついつい心に余裕がなくなりばたばたとしてしまいます。主婦という仕事は家庭内のマネジメント的なお仕事が多いですが、ただ淡々と仕事をするにとどめるべきところを、つい境界線を踏み越えてなんでも思い通りにしないと、という強迫状態になりイライラしてしまったり。もしかしたら会社勤めで管理職をされている方にも共通することかもしれません。マネジメントしているつもりで管理になってしまいがちというか。「わたしがなんとかしないと」という意識になりがちです。

そういう時、自分の感覚としては「ぎゅーっと」しています。融通がきかなくなります。ドナドナの売られていく子牛じゃないけど、「辛い」気持ち。選択の余地がなく、いやなことをさせられ続けている感覚。


論理的思考が強くなる感じにも似ています。

いろいろなケースを想定して予定をたてる。その予定を意識してそれをなぞるように生きてしまう。

まあ、現実を生きる上で、予定をたてることもto do リストや買い物リストを作ることもせざるを得ないですが、よく考えて見ると生きることは予定表ともリストとも別物なんですよね。

 

例えば生まれたてのふわふわのひよこみたいな存在として、ああ、風が冷たいけど気持ちいいな、とかこっちの方は陽が当たってきもちよさそうだから歩いていってみようかな、とか、水たまりでばちゃばちゃしよう、とかそういうことを大切に生きたいなとおもった、というのが「ほわっとしたい」ということばでいいたかったことです。

 

こどもを見ていても、そういう生き方が正しいんだろうな、とおもうのです。

 

決してかちかちに武装していきているわけではなく、ふわふわな状態で傷ついて、泣いたり困ったり毎日していますが、親にその気持ちを聞いてもらってすっきりすると、次の日は元気になって、くだらないギャグをいって心の底からケラケラ笑っています。

 

これが生命力だなって思います。

 

予定表やto do リストを手元に持ちつつも、わたしはリストの消化マシーンじゃないぞ、自分にといいきかせて、ちょっと寄り道したり、ひなたぼっこしたりする時間や心の余裕を大切にして、流れに任せて新しい年を過ごせたらいいなと考えています。

 

今年もよろしくおねがいいたします。

 

そしてみなさまにも「ほわっと」した瞬間がたくさん訪れますように。

チャンスを生かす

今回の内容はこの記事から続いています。

 

milkaddict.hatenablog.com

さて、硬直化した人たちが世の中の大多数になって、その中で硬直化したお母さんが子育てをしている状況を想像してみてください。

 

みんな一生懸命、みんな善意でそんなに悪い人ではない、なのに実際には窮屈な状況が生み出されてきます。

 

例えば、電車で幼児が癇癪を起こす、泣き止まない、という場面。みんな困ったと思っているし、なんとかしなきゃ、と思っている。(実際にはいろいろなパターンがありますが例としてシンプルに想定しています)

 

硬直した人のやり方としてはこんな感じです。

 

まわりの大人→なんとかしろ、けしからん、と母親を責める(なんかうるさい、なんとかしてほしい、でもこどものことなんかわからないからどうしていいかわからない)

母→子どもを怒鳴る(困っている、どうしたらいいかわからない、それで怒鳴らなければ、おもってしまう)

 

特に母親の側からすると、こんな状況になったらまわりに気を遣って、あせるし、恐怖も感じるし、硬直してしまいがちですよね。

 

でも、たとえば孫がいるくらいのおばさまがのりあわせていたら「あらあら大変ねー、いないいないばあ」とかしてくれるかもしれない。たぶん時間にも気持ちにも余裕があるでしょうし、一気に場がなごんだりしますよね。

 

たぶん他の人もリラックスして柔軟に考えてみれば、いろんな選択肢があるはずです。

母親がだれとでも仲良くおしゃべりできるタイプの人なら「もうこの子、癇癪がひどくて困ってるんです」とざっくばらんに周りの人に話しかければ「そうなんだ、大変なんだな」と初めて気がつく人もいるし、「こうしたらいいわよ」と教えてくれる人もいるかもしれないし。もう電車降りちゃってもいいですよね。周りの人で例えば頭痛がひどくてこどもの泣き声が辛い、とかだったらその人が他の車両にうつったり一本遅らせてもいい。少なくとも、お母さんも大変なのかもしれない、と想像してみることもできます。

 

また、電車やバスの車掌さんがなにかしら声をかけて配慮を示すということも可能ですね。(先日、泣き止まない赤ちゃんを連れたお母さんに、心配しなくていいですよ、とアナウンスを流したバスの運転手さんのことが報道されていました。)


いままで「こうせざるを得ない」「仕方がない」とおもっていたことも、それぞれが硬直化した反応をやめることで、状況を変えることができるってなんだかすごいとおもいませんか?

 

わたしの好きな本で「チャンスを広げる思考トレーニング」 ロザモンド・ストーン・ザンダー、ベンジャミン・ザンダー著 という本があるのですが、(いまは絶版で、タイトルの違う新版がでています。「人生が変わる発想力」 パンローリング社 ↓ こちらです。)

人生が変わる発想力 (フェニックスシリーズ)

人生が変わる発想力 (フェニックスシリーズ)

  • 作者: ロザモンドストーンザンダー,ベンジャミンザンダー,村井智之
  • 出版社/メーカー: パンローリング
  • 発売日: 2012/10/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

あれもだめ、これもだめ、という八方ふさがりに思える状況を創造的に解決するための発想の転換のやり方が紹介してあります。

目次を紹介するとこんな感じです。

可能性を実現する12の手法

1 全部作り物
2 可能性という宇宙へ
3 みんなにAを
4 貢献する
5 誰もがリーダーになれる
6    規則その六

 

 

…続く

 

最初のところにはこんなエピソードが紹介してあります。

 

「靴会社がアフリカのある地域に2人のマーケティング調査員を送り、進出先として有望かどうかを調べる。1人が打ったのはこんな電報。
「絶望的。誰も靴を履いていない」
もう1人は意気揚々と報告する。
「すばらしい商機。誰も靴を履いていない。」

 

物事の捉え方をちょっと変えるだけで、いろんな可能性が見えてくることを端的に表しているエピソードだとおもいます。

 

こうだからこうなってこうなって…と最終的に悲観的な結論に陥るロジックのチェーンのどこかの輪を替えたら、結論はきっと変わってくるとおもうのです。

 

それは枠組みを変えることかもしれないし、自分の考え方かもしれないし、まわりの反応かもしれないけど。

 

困ったなあ、という状況に、柔軟に、クリエイティブに、自由に対応を考えられる大人がどんどん増えて多数派になれば、学校も会社も社会も住みやすくなりますね。

 

やり方は人それぞれだし、立場も方向性も適性もいろいろあるとおもいますが、
それぞれができることをやって少しずつ世の中がよい方に変わっていったらいいなとおもいます。

硬直化してしまうこと

いまこどもとアニメの「アルプスの少女ハイジ」を見てます。

小さい頃見ていたのですが、細かいところは忘れてしまって、見るといろいろ発見がありますね。

 

始まりの場面。ハイジは両親をなくし、デーテおばさんに預けられているのですが、デーテは働きたいのに、ハイジのせいで思うように働けない。フランクフルトにいい仕事をみつけたのでなかば強引にハイジの祖父であるアルムおんじのところにハイジを置いていく、というのがハイジがアルプスの山で暮らし始めるきっかけです。

アルムおんじことハイジの祖父は、デーテの強引な態度に怒るし、村の人も気難しい老人に5歳の女の子を預けるなんてあんまりだ、とデーテを非難します。

デーテはみなに反対されて泣きながらも「わたしにはそうするしかないのよ」とあくまで意見を変えません。「わたしだってかわいそうよ」と。

まあ誰が悪いとかいえない場面です。日常よく見覚えのある感じです。

 

 

「こうせざるを得ない」

 

というのはわたしたちにも身に覚えのある論理ですが、そう思っている時、人は硬直化している、と思うのです。硬直するのも程度があります。どんな時自分が硬直してるか考えてみると例えば悲観論に傾く時って硬直してるかなと。

 

恐怖にかられている時、身体も固くなります。

 

後は、自分の頭で考えようとせずに安易に型にはまろうとする硬直もあります。

 

自分のやり方がかちっとできあがっちゃって他の意見がまったく耳に入らないのも硬直だし。

 

プライドや、世間体にとらわれて、変われないことも硬直。

 

被害者意識にとらわれてしまうこともあるでしょう。


なぜ硬直してしまうかというと、身を守るためにしてしまう防衛の反応なんだと思うのです。天敵に食べられそうになってアドレナリンが出ている、そういう時の動物の反応。


だけど、よくよく考えてみれば柔らかくいられる方が選択肢もたくさん持てるし、生き延びる確率は増える。硬直してしまうととれる道が少なくなり「そうせざるを得ない、選択の余地がない」という状況に陥りやすい。身近でよく見る「困った人たち」だって、よく観察すると驚くほど自分とよく似た普通の人で、ただ「そうせざるを得ない」と思ってそうしているだけ。

 

いじめですらそうですよね。

 

やらないとやられる、という動物的な脊髄反射で安易にいじめてしまう。また、自分も関わらないとやられるという発想でいじめる側にまわってしまう。もし、そこにいじめに加担せず自分も生き残る選択肢が浮かべば大多数の人はそっちの道を選べるはずだと思うのです。

 

そして、怖いのは自分だって、うっかり硬直した生き方をしていたら無自覚に他人を傷つけ、それに気付きもしていないかもしれないということ。

 

次の記事で、じゃあどうしたらいいかということについて考えてみます。(続く)

 

「怒る」こと

 

こどもを怒ることについて書きたいとおもいます。
といっても、子育ての専門家ではないので、そういうハウツーとは少し違うと思いますが。

こどもを怒るのはできるだけしたくないけど、怒らないで子育ては無理ですよね。

癇の強いこどもを育てながら、試行錯誤している時、いろいろ試した中で「怒らない子育て」にもチャレンジしたことがあります。

いま考えるとなんでそんな不自然なことを?と思います。

怒らない人間はいないのだから、怒らない子育てなんて有り得ないといまは思いますが。

でもその時は必死でチャレンジしていましたね(汗)。

いろいろな親と子のかたちがありますから、そういうスタイルが適切な場合も、もしかしたらあるのかもしれませんね。

でも、最近のわたしは頭にきたら我慢しないで怒ることにしています。結局怒らないというのはわたしには不可能なので、怒らないというのは=その分ストレスをためてしまって、後でやつあたりしてしまうだけだと学んだからです(汗)。

ただ、怒る時気をつけているのは、そこにいろいろ余計なものを乗せないことです。

余計なものってなんでしょう。それは自分の中の不安だったり、被害者意識的なストーリーだったり、思考パターンだったり、日頃の不満だったり。

そういうものがのっかっている時、怒りはすぐに治まらず、形を変えてしつこく出続けます。最初頭にきた事が解決しても、いいがかりをつける、因縁をつける、からむ、そういう感じです。

自分の中のネガティブなものが連鎖して勢いを増し、止まらなくなります。

余計なものがのっかっている時の怒りは長引きます。だから自分ですぐわかります。あまりわからない、という場合はまず自分が怒っている時にいまはどうかな?と感じる練習をしてみるのがいいとおもいます。

「だめでしょ!」と具体的に怒った後ねちねちと引きずらず、こどもと笑顔でくすぐりっことかできるくらいなら問題ないと思います。


例えば

この子またピーマン残して(栄養失調になったらどうしよう、大人になっても好き嫌いが多かったら苦労するのでは)

こどもが片付けをいやがる(もう、わたしばっかり片付けさせられる)

こどもがいうことを聞かない(わたしは昔からだれにもいうことを聞いてもらえない)


という感じで、ピーマン残した事に対して、片付けないことに対して、反抗する事に対して注意する、だけじゃなく自分の中のネガティブな思いがのっかってしまうのです。

普段から自分の内側を見つめて、ネガティブな思いをためてないかな?ってチェックすることも大事ですね。自分を責めたりすることなく、ただただ、自分の内側になにがあるのかな?とぼーっと眺めるといいとおもいます。心のお掃除ですね。

後は怒っている時に自分の内側にセンサーを向けて、本当に子どもに注意してるだけなのか、自分の中のネガティブな思いをぶつけていないか、感じることが大事です。


そこにさえ気をつければ後は完璧じゃなくてもいいと思うのです。

人間、疲れている時も機嫌が悪い時もあるので、多少理不尽なことで怒ってしまうことはあるし、感情的な怒り方の時も多少やつあたり気味の時もあります。

でもそれはたいした割合ではないだろうし、こどももバカじゃないからそのくらいわかるだろうと信頼しています。あまりいつも正しく怒らなくてもいいことにしておいた方がお互い気楽です。

あとは、自分が怒った事で後からそれが事実誤認だったと気付いたら、「さっきは怒ったけど、本当は違ったね、ごめんね」っていえたらいいですね。そのへんも素直に謝れないときはちょっとイエローカードだなって自分で思ってみるといいとおもいます。

 

自己肯定感について

 子育てで自己肯定感ということばはよく耳にするとおもいます。こどもにとって自己肯定感が大事だということはみなさんよく知ってらっしゃると思います。

 

ありのままの自分でいていい、安心していられる、自信を持っていろいろな活動に取り組める、そんな気持ちの元になるのが自己肯定感ですよね。

 

こどもの自己肯定感を上げる関わり方、工夫、そういうことはわたしの専門ではないのですが、こどもが自己肯定感を持つためには親が自己肯定感をしっかり持つことが一番大事だ、ということはわかります。

 

こどもにとって、「失敗もあるけど自分が好き!」と感じて毎日生き生きと自分を生きている見本(親)を身近で見られることがどんなに大事か。そして、大切なのは、自分を肯定していなければ他人のことも肯定するのが難しくなるということ。

 

逆にいえば、親が自己肯定感を持って生きて、子育てするならば、子どもに対しても自然と自己肯定感をあげる関わりをするだろう、ということです。

 

みなさんはどうですか?自己肯定感があると感じられますか?

 

 

現代社会は自己肯定感を持ちにくい仕組みになっています。日常充実した毎日をいそがしく送っていて、あまり考え事をしないという人は特に要注意です。

 

うっかり現代社会の価値観や広告のいうことにだまされて、自己肯定感がしっかり育ってないことがあるからです。

 

例えば、主婦だったら、家事が上手にできなきゃいけない(栄養たっぷりのお料理でおもてなし上手に、家はいつもモデルルームのように掃除がゆきとどいて、インテリアもおしゃれに)とか、若い女性だったら美人でスタイルがよくておしゃれで魅力的じゃなきゃいけないとか、仕事をしている人だったら成功しなきゃ、お金がたくさんなきゃ、有能でなきゃ、MBAがないと、海外でバリバリ仕事しなきゃ、とか。

 

テレビとかマスコミがモノを買わせるために無意識に吹き込んでくる情報は、いい加減もいいところなのに、たちどまってそれをいちいち「そうなの?」「本当に?」と吟味しなければ、なんだかそれが普通と思ってしまいそうになります。

 

でも、いろいろなものをとりはらった自分はなんの価値もない、だからあれやこれやにお金を使わなければならないなんて本当でしょうか?

 

わたしは基本的にはあまり人からの評価とか気にしないたちですが、それでも家事が苦手なことについひけめを感じたり、素敵な外見じゃない自分が気になったりすることはあります。特に、子育てについては特に「こうすべき」「ああすべき」というのがたくさんあって疲れますね。

 

他のお母さんと話しているとすべてが「わたしって素敵なママでしょ」というアピールに聞こえてきてしまうこともあります。でも逆にいえば、たくさんの人が「こうしなきゃ」というたくさんの思い込みに縛られて窮屈な思いをしながらその人なりにがんばっているんだな、とおもうのです。

 

言い方を変えれば自己肯定感が低いために、まわりに対してもそのままの相手を尊重する関わりが難しくなっている、ともいえます。アピールする人は結局、そのままの自分に自信がないんですよね。だから「あれ」や「これ」をつけた自分を一生懸命見せなくてはと思ってしまう。悪気はないのに、相手を窮屈なきもちにさせてしまう。そういうことかなとおもうのです。

 

でも子育てや家事(仕事、恋愛)を完璧にやりこなすなんて不可能だし、そのためのTO DO リストを想像しただけで疲れてきませんか?

 

では逆に一番大切な、これさえあればいいことってなんでしょう?

 

 

答えはそれぞれだとおもいますが、みなさん考えてみませんか?自分と自分の子にとって一番大切なもの、それさえあればいいってもの。

 

それさえしっかり自分の中に持っていれば「なんだかんだ今日も完璧は無理だったけど、大事なことはちゃんとできた!」っておもえますよね。

 

その積み重ねが自分の自己肯定感を育てていくし、こどもの自己肯定感を育てられる親ってそういう親じゃないかなっておもうんです。

ママは(パパは)完璧な親ではないけど、がんばってるよって笑顔でこどもにいえる親であれば、きっとこどももハッピーな気持ちになれる。

 

 

その逆はどうでしょう。あれもしなくちゃこれもしなくちゃ、と毎日あせりながら暮らし、思い通りにならないこどもをつい怒ってばかり。本当はこどものことが大好きなのにそれを表現するチャンスがない。こどもからするとだめだめって叱られてばかりでなかなか自分はそのままでいいって思えないので自己肯定感は上がらない。

虹色教室の奈緒美先生が子育てで大事にしているのは「自分の心に注意する」と「大きな問題が起こったときこそ、しっかりと親になろう!と決めた」と記事でいってらっしゃって、それはすごくそうだなっておもいます。ひとつの究極の答えですね。

 

わたしにとって子育てで大事にしていることはなんでしょう。その時によって答えは変わるのですが、いまは「一日のうちで何回かでいいから、こどものことを大好きって思える瞬間があって、一緒にいられてうれしいって思えること」を日々大事にしています。いまのところ、それができてたら、ごはん手抜きでも、家の中が散らかってても、家計のやりくりに失敗しても、段取り悪くてぐだぐだな一日でもOKと決めています。

実は子どもが小さいころ、神経過敏で毎日かんしゃく起こしてぐずって大変な時期が数年間ありました。その頃はわたしも日々くらーい顔で怒ってばっかりだったので、その体験からそんな風におもうようになったのかもしれません。

いまでも親にはわからない理由でぐずったり、歩かなくなったり、癇癪起こしたりは珍しくないですが、これはもう親がいくらがんばってもゼロにはなりません。

それをなくそうとするとものすごく辛くなるので、逆に一日に数回こどもと笑いあったり大好きって思える瞬間があればいい、とおもうようにしています。

 

 

よく考えてみたら、大事なことはそんなに多くありません。こどもが生きていてくれること、かもしれない。こどもが笑ってくれること、かもしれない。その答えはそれぞれの子育ての数だけあるし、子の成長や親の変化によって変わっていくかもしれません。

 

でもぜひ考えてみてほしいのです。大切なことはなにか。

 

大切なことをしっかり押さえたら、他のことはまあいいかって思えます。それによって自分の自己肯定感をあげ、親が笑顔で過ごすこと。そこからこどもにも家族にも笑顔が広がります。

 

子育てもそうだし、人生もそうですよね。

 

いやなこと、思い通りにならないことはたくさんあって、ゼロにするのははっきりいって不可能です。不可能を可能にしようと毎日目をつり上げてがんばったとしても、その努力が100%報われる(すべてが自分の思い通りになる)ことはないのです。

 

なんだかそう思うと、自分ががんばりすぎてたな、と拍子抜けしませんか? 本当に、世の中の大半のお母さん(世の大人のみなさんもですが)はがんばりすぎだとおもうのです。

 

せっかく子育てするチャンスを授かったのですから、すこし気持ちを切り替えて、自分を大事にしてゆったり構え、ほっこり、ぬくぬく、じんわりうれしい、そんなふうに心の奧で感じる時間を少しでも持つようにしてみませんか?

 

まずは自分から。

じっくりとその子の感性の育ちを見守る先に

www.excite.co.jp

シリーズ記事の途中ですが、ふと読んだ記事がすてきすぎたので、書き留めておこうとおもいます。

 

記事のタイトルはこちらの浅見俊哉さんの小学生時代に作った個人新聞をフィーチャーしていて、確かに人目をひくタイトルのつけかたなのですが、記事を読んでいるとこの浅見さんの親御さんの子育てがとってもすてき、というかこの浅見さんの育ちかたがすてき、というかとにかくこういうのっていいな、とおもいました。

 

大量の個人新聞からは、浅見さんが小さい頃から丁寧にいろいろなことを感じ、それを書き留めることで大切に自分の中で咀嚼している様子が伝わってきます。きっかけは小学校のプログラムだったそうですが、楽しくてどんどん書いて320号までかいたのだそうです!!!

 

お母さんはそれらの個人新聞とか豆本とか絵とか賞状などすべてとっておいてくれたそうです。ただなんでもとっておけばいいというものではないけど、そういう浅見さんの感性まで大事にしてくれていたのかな、という気がします。

 

そしていまは浅見さんは、美術の道に進み、時間を感じるアートを発表しているそうです。

 

このように、新聞が過去から今の自分に訴えかけているように、浅見さんは現在、写真作家として「時間」を大切にした活動をおこなっている。例えば、広島の爆心地2キロ圏内で被爆した170本の「被爆樹木」に毎年出向き、木に生えている葉っぱを感光紙の上に載せて日光に当て、葉っぱの影を写し取るという「日光写真」作りをしている。こうすることで、1945年8月6日から今までその木が生きてきた時間までも刻み付けられると思ったという。それを「呼吸する影」という題名で発表している。

また各地へ行って、ペンライトで自分の体の輪郭をなぞり、一筆書きをしながらその間の写真を長時間露光で撮るアートなども手がけているという。

 

この方のお母さんはじっくりと、こどもの興味を持つものを見極め、その子の行きたい方向に背中を押してやり、その感性を大事にしてあげるような子育てをされていたのではないかなとおもいます。そしていいかたちにそれが花開いた、という気がします。

 

ご本人のサイトを拝見すると、美大ではなく教育学部で美術を専攻していたとのこと。それもなかなか自分の個性を伸ばせるよいチョイスだったのではないか、と感じました。

 

 

みなさまよいお年をお迎えください。