職場の人間関係
仕事といえば、職場の人間関係に心を砕くのが相場です。わたしも結構気を配っているとおもいます。 まあ、日々うまくいったりいかなかったりです。失敗もつきものです。
ただ、そこで大事にしているのは子育てで培った観点です。
- どんなこども(大人)にもいいところがある。この人はいい人、この人は悪い人、とわけるのではなく誰にでも長所と短所があり、特徴をいかにうまく生かして本人もまわりも楽しく生きていけるかが問題。うまくいってないように見える時は、その人のいい部分をどうしたら生かせるか考える。
- それぞれ人は役に立ちたいという気持ちを基本的にもっているはずだから、どの人も自分の力を生かして役に立てるとわかったらきっとうれしいはずだ、という前提で動く。こどもだって自分に見あった内容のお手伝いをきちんとできた時は誇らしげな顔をするのだから。
- それぞれの多様な個性のよいところを生かしあって、生産的に、前向きにプロジェクトを進めることは楽しいことだ、と考え、仕事を苦役だと捉えない。
といったような考えでやっています。
周りの人がすぐに賛同してくれるわけでないし、仕事は辛いもの、会社というシステムには逆らえない、というがっちりした思い込みにとらわれている人もいますが、まずは自分ひとりでもこうした考えを持ち「楽しげに」お仕事していくことで、徐々にまわりも「楽しそうだしうまくいってるからそっちの考えの方がいいかな」と思ってくれるといいなとおもいます。
昔働いていた職場で、風通しよく、自由に仕事ができていた経験も(もちろんいつもいつもではないですが)あるので、そうしたイメージを持てることも大きいかもしれません。
また、新規立ち上げの職場なので、そこで働く人が新しい、フレッシュな気持ちで業務に向き合っていることもあるのかもしれません。
いろいろ困ることも発生し、そのたびにあれこれ動くのですが、いまのところ「変わらない人なんていない」、「時間をかければ大人もいい方に変わっていく」、そうした兆し、手応えは感じています。
はじめての家出
上の子がはじめて「家出」しました。
といってもまだ8歳、かわいいプチ家出で危ないことにはならずよかったです。
このところ、どうでもいいうそをついたり、ぐずぐずすることが多かったのですが、敏感な子なので、クラス替え、担任替えがある4月は毎年こんなもんかと思っていたのです。
ただ、それだけじゃないんだ、8歳から9歳の成長ってすごいんだ、と思わされました。
最近学童に迎えに行くと、ボール遊びで盛り上がっていて、もっと遊びたいから帰りたくないようです。その日も迎えにいったらもっと遊びたいからまだ帰りたくないといいました。
ただ、宿題をきちんとできない日が続いていたので、朝わたしが出勤するまでにその日の朝に提出する分が終わっていなかったら、その日は早めに帰宅して次の宿題をするよ、という約束にしてありました。
なので、その日も朝ちゃんと宿題終わらせてなかったから早く帰ることになっていたのです。
もっと遊びたいというこどもに、約束だから帰るよ、というと、「えーだって朝宿題やったもん」といいはります。「やってなかったじゃん」というと「ママに見せてないけどやった」とかわけのわからないことを、しかもしつこくいってくるので、珍しいことですが、他の親子や学童の職員の前で結構きつく叱りました。
上の子は帰り道泣きながら、ひとりで先に帰って行って、わたしと下の子が家についてみると上の子がいません。
「あれ?」ってなって、下の子に「どこにいったんだろうねえ?」と聞くと、「いつも遊びにいくお店にいるに決まってるよ」といいました。近所の仲良くしている八百屋さんです。学校の行き帰りに必ず通るし、こどものおもちゃや絵本をおいて遊びコーナーも作っているし、わたしがそこで読み聞かせしたりしているので、よくしてくれています。
そこで下の子に頼んで迎えに行ってもらいました。
帰ってくると上の子は「こんどママが怒ったらまた家出してやるから!」と捨て台詞。
ここで初めて発覚したのですが、どうも本人は家出したつもりだった模様。
なんだ、そういうつもりなのだったらもう少し家出させといてやればよかった、と後で思いましたが。
たぶんどらえもんでのびたくんが家出する話を見ていたので、それの影響もあるのかな。
最近わざと悪いとわかっていることをやるなと思っていました。すぐばれるうそついたり。怒られたいの?って感じです。
でも、今回の事件を振り返るに「怒られたい」のですね。そして親から自立したいのですね。
そういう気持ちが芽生えつつある、ということだな、と解釈しました。
初家出おめでとう、といいたい気分です。
それにしても、適切に怒るというのは奥が深いですね。今回もきわどいところでうまくいったとは思いますが、あと一歩でまずい事態になるところだった気もします。
怒ればいい、怒らなければいい、という単純な問題ではないので難しいです。これからも修行は続きそうです。
子どもの非認知能力を育てるには「ていねいな関わり」が大切
時々ご紹介している増田修治さんの新しい記事を発見しました。増田修治さんは小学校教師を28年した後いまは大学で教えてらっしゃるそうですが、こどもにどう寄り添うか、実践の経験を踏まえてよくわかっている方だと思います。
今回の記事も、わたしがとても大事だとおもっていることを書いてらっしゃいます。
「認知能力」とは皆さんがよく知っているように、IQや学業達成など、学力テスト等で測定可能な能力のことを言います。それに対して、「非認知能力」とは、自制心、勤勉性、外交性、協調性などその他の要素のことを言います。例えば、「興味あることを納得するまで調べてみる」とか「自分からさまざまなことにチャレンジしてみる」などといった能力です。今、海外研究を中心に、多くの研究によって「非認知能力」の重要性が指摘されるようになり、「非認知能力」が、「人間の一生を決める!」とさえ言われるようになっています。
なんとわかりやすい説明でしょう。それにしても、測定可能な能力以外の要素とは幅広いですね。
貧困の状態にあっても、学力の高い子どもたちは具体的にどのような面が違っているのでしょうか。学力の高い子どもは、まず「生活習慣や学習習慣が確立している」ということです。起床の習慣、朝御飯をきちんと食べること、自分から宿題をきちんとやることや分からないことを自分から調べるなどのことができているのです。次に、学力の高い子は「思いを伝える力」が高いのです。
こうした力は、子どもとていねいに関わり、子どもの意見を聞きながら、自分の意志で生活や学習の習慣を家庭で決めていくことで育っていきます。ここで強調したいのは、「生活習慣」や「学習習慣」が大切だからといって、親が一方的に決めてしまわないことです。私が何度も言っているように、子どもの意志や考えを尊重しながら、守れることを子どもと一緒に決めていくことが大切なのです。
そうなんですよね。親が一方的に決めてしまうのが一番楽なのですが、そうではなく、子どもの意志や考えを尊重しながら守れることを子どもと一緒に決めていくことが大切、わたしもそう思います。
ただ、それって忍耐力もいるし、時間も手間もかかることなので、あまりこういうことをいっても、「そうそう、そうだよね」なんて反応は返ってきにくいですが。
でも大切なことだとおもいます。
増田さんの記事を紹介するといつも「その通り!」というコメントしか出てきません。ぜひ紹介した記事を読んでみてください。
愛着障害ということば、思春期の親とのぶつかりあい
最近「愛着障害」という言葉を知りました。
親との関係によって、こどもに必要かつ適切な対応が得られなかったときに、こどもが精神の発育、特に人間関係の形成に大切な考え方や対応方法がうまく身につけられなくなる、ということだと理解しています。
これは、わたしと親の場合を考えると、確かにあてはまるなというところもあり、そういう考え方を使うときちんと問題が把握できたり、うまく対応できたりということはあると思います。
でも一方でそのことばに振り回されすぎないように、ということも自分に言い聞かせています。
以前自閉症スペクトラムやアスペルガーという概念を知ったときも、すごく自分にあてはまる点があるなと感じてすごく調べたり悩んだりしたことがありました。
(結局軽度のアスペルガー傾向はあるかもしれないけど、診断がつくほどじゃないんじゃないかというのが自分なりの結論なのですが。)
その経験を踏まえて考えると、自分にはたくさんの欠点もあるし、発達や特性の凸凹もあると思うし、まあ愛着障害的な要素もあるのかもしれないけど、そういうだめなところ、欠けたところをいくら分析して名前をつけても仕方がない部分もあって。
まるごとそういうものを抱えて、だめなところもたくさんあって、でも貢献できるところもたくさんある自分を受け入れて、そのまま生きていくしかない、と感じています。
親との関係でいえば、親にもっとこうしてほしい、こうしてほしかった、ということは数限りなくあるのですが、わたしは思春期にものすごくそれを親にぶつけて、20代はほぼ絶縁ぎりぎりのところまで行ったので、自分的にはそれですっきりしてけりがついたと思っています。そういう意味ではけんかさせてくれるくらいの度量のある親ではあったと思います。
そういう時期を通過することで、親は親でだめなところもあったけど、それなりにわたしを愛して、よかれとおもって必死にやってくれたこともいまは理解できるのです。
だから、わたしもこどもに対して至らない点は多々あるのですが、いままでも誠実に100%全力で向き合ってきたし、これからもだめなところがたくさんあるわたしをまるごと生きることで、こどもにはそれを参考にして自分なりの生き方を作っていってほしいなあ、と考えています。
生命の輝き
最近おもいがけず、向き合うことになったのは、自分の欲望です。
といっても、日常のささやかな欲望のことですが。
他人の評価というものを意識せざるを得ない状況で、「よくおもわれたい」という気持ちが自分の中に大きくあることを改めて実感しています。
もちろん、人間として普通のことだと思っています。子育て中の数年間、こどものことだけ考えて、家と幼稚園と学校を行き来する毎日だったのであまり直面してこなかっただけです。
ただ、他人からの評価というのはいいにしても悪いにしても、わたしには全く決定権のないことで、「よくおもわれたい」という気持ちが強ければ強いほどそれに振り回されてしまいます。
そんなときに思うのは、なぜか思春期の無様で失敗ばかりだったときの自分のことなのです。
愛着障害があったのか、自己肯定感が非常に低く、精神状態も不安定で(思春期だからそんなものかもしれませんけど)、そこからなにをやっても失敗ばかりと感じていました。
無力で、なにも持ってなかった。
なにをするにも自信がなかった。
自分が自分を好きでないので、他人からの評価も低かった。
しょっちゅう泣いていた気がします。情けなくて。みじめで。
ただ、そんな中で泣きながらも、痛みを抱えながらも、なにか自分の内側で輝くものを感じて一歩ずつ前に進むことができたので、いまのわたしがいます。
現実の小さい自分が成功や失敗、他人からの評価に一喜一憂していることに全く関係なく、誰もの内側で控えめに、ときに大胆に輝いているなにか。
よいときも悪いときもそのなにかはまったく損なわれることがありません。
いつもその存在を感じていたいと思います。
「ポーラをさがして」
小学校中から上級向けとなっていた本です。
童話館から来るお知らせでこの本のことを知り、気になって読んでみました。
塾通いをしている2人の女の子が中心となって、特に主人公のショーコの日々の思いがきめ細かく描写されています。
思春期特有のざらっとした気持ち、どこかにある本当のことを求めて年上の人の話を聞いたり塾の先生と話したりしたくなる気持ち。
いままで慣れ親しんだ幼馴染のグループを一歩抜けて、また違ったタイプのカナと関係を深め、自分の世界を広げていく様子。
困った状況にいる友人を助ける、という行動は、実際にはことばでいうほど美しくも簡単でもないのですよね。時に友人への嫉妬の気持ちだとか、自己満足に陥りそうになる危うさを伴って、自分が果たしていいことをしているのか悪いことをしているのかも見失いそうになる、そういうものだとおもいます。
そうした心情の移り変わりがリアルにうつしだされていました。
小学生高学年くらいでこの本に出会えたら、本の登場人物と一緒になっていろんなことを感じたり考えたりして、共に成長できるのではないかと思います。
こどもが大きくなったら読めるように、買って家に置いておきたい本です。
春の嵐
きょうの関東地方は強い風が吹き荒れました。
なんだか我が家もこのところ、嵐が吹き荒れるようにいろいろなことがありました。時々こういうことがありますね。
いろいろなことが起こって、自分にわけのわからない感情が吹き荒れたり、自分の中をよーく見る機会に恵まれたり、良かれと思って動いたことが他の人を傷つけてしまったり。
でもいろいろなことをしっかりと見切って、また一段高いレベルで毎日に向き合っていけそうです。
そんな中無事に下の子の小学校の入学式をすませることができました。
上の子が生まれてから8年間ほど子育てにどっぷりの日々でしたが、わたしにとっても、うちの家族にとっても、また違う時代が始まるんだなとしみじみしています。