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狩猟採集民の寛大さと信頼にあふれた子育て

狩猟採集民の社会で、親がこどもに対してどんな態度で子育てしているか、という部分を紹介します。

 

先の記事で紹介した狩猟採集民の「平等」「自律」という考え方はこどもとの接し方にも応用され、それは「信頼にあふれた」ということばで表されます。

 

子育てと教育観の中心となる信条は、

 

◉子供の生まれ持った才能を信じる

◉自分の意思に従って行動できるようにすれば、子供は学ぶべきことを学ぶ

◉子供がスキルを身につけ、十分に成熟した段階で、子供は自然にバンドの経済的活動に貢献し始める

 

というものです。

 

 現代の子育てでも感じることですが、大人が普段持っている考え方、理念といったものがそのまま子育てに反映されるのですよね。

 

だから、子育てだけ取り上げてどうのこうのいうのは、少し違うのかな、という思いは以前から持っていました。大人がまっとうに毎日を生きて、その延長でこどもに接していれば、それほど間違ったことにならないんじゃないかと。

 

とにかく、ここに紹介している価値観では、大人が干渉しなければ、こどもは自分が本来持っている力を使って自分で自分を教育していき、十分に成熟すれば仕事を始めて社会に貢献し始める、ということです。

 

次に紹介するのは、狩猟採集民の子育てに関する研究者のコメントです。

 

◉狩猟採集民は子どもに命令することはない。たとえば、寝る時間を知らせる大人はいない。夜、子供たちは疲れて眠くなるまで大人たちの周りにいる。(中略)ブラジルのパラカナの大人たちが、子供たちの生活に干渉することはない、大人たちは、子供をたたいたり、叱ったり、肉体的にはもちろん言葉によっても攻撃的に接することもない、あるいは、褒めたり、子供の成長の経過を追ったりするようなこともしない。

 

◉(ベネズエラのイエクアナには)これは「私の子ども」あるいは「あなたの子ども」という考え方が存在しない。その子が何歳だろうと、他人が何をすべきかを決めるということはイエクアナの言葉にはない。他の人が何をするかということには大きな関心を寄せるが、それに影響を与えようとする欲求はない。ましてや力ずくで、何かをさせようとは思わない。子供の意思が自分を動かす原動力である。

 

◉(カナダのイヌイットの)幼児や子供は、自分の肉体的な能力が許す範囲で、身の回りの環境を探索することを許されている。従って、もし子どもが何か危険なものを拾ったとしても、親は一般的に子供が気の済むまで探求させている。子供は自分がしていることを理解しているとみなされている。

 

◉(アフリカのカラハリ砂漠の)ジュホアンシの子どもたちはほとんど泣くことがない、たぶん、何も泣くことがないからと思われる。怒鳴られたり、平手打ちにされたり、体罰を受けたりする子は当然いないが、叱られたりする子も見たことがない。思春期が近づくまで、やる気をそぐような言葉を聞くこともほとんどない、非難も(それが本当に非難であっても)、とても柔和な声で言われる。

 

 

さて、現代で子育てするわたしたちがこういったエピソードを聞いてまず感じる不安は「え?それでうまくいくの?」ということですね。怒らなくていいならそれが一番だけれど、それでいい子に育つのかしら?と。

 

私たちの社会の多くの人にとって、以上のように子どもの欲するままにさせることは、大人になってからも甘えたり、要求ばかりしたりする子どもを作り出すための原因になると捉えられかねません。

 

しかしながら、少なくとも狩猟採集民の暮らしの視点からするとその反応はまるで見当違いです。次に紹介するのは、ジュホアンシを調査した最初の1人だったエリザベス・マーシャル店トーマスが甘やかすことについて反応した内容です。

 

そんなに優しく子どもに接したら、甘やかしてしまうと言われがちだが、そのように言う人は、そのやり方がどれだけ成功しているかを知らないのである。欲求不満や不安から自由で、快活で、協力的な(中略)ジュホアンシの子どもたちは、すべての親にとっての夢である。どんな社会も、これに勝る子育てをしたところはない、ここの子どもたちは、賢明で、感じがよく、自信を持っている。

 

 

 この寛大で、信頼にあふれた態度を前提にするならば、狩猟採集社会の子どもたちがほとんどの時間を自由に遊んだり、探索したりすることを許されていることは驚くには足りません。狩猟採集民の大人たちがもっている一般的な考え方は、「子どもは自主的な遊びと探索を通して、自らを教育する」というものです。

 

狩猟採集社会の大人たちは、子どもの教育を管理したり、指示したり、動機付けをしたりすることは一切ありませんが、子どもの望みに応える形で子どもの自己教育を支援します。たとえナイフや斧など、それが危険を及ぼす可能性があっても、子どもに大人の道具で遊ばせることを許します。こどもがそれらを使いこなせるようにならなければならないことを知っているからです。

子どもが大人に何かをして見せたり、助けてくれるように頼んだりしたときは、大人は願いをかなえてやります。狩猟採集民の研究者の1人は次のようにいっています、「共有したり、与えたりすることは彼らの中核的な価値観なので、ある個人が知っていることは、他のみんなにオープンであり、提供されるのです。もし子どもが何かを学びたければ、他の人は知識やスキルを共有してあげるのです。

 

狩猟採集民のこどもは自分の教育は自分でするのですが、バンドの大人たち全員と、他の子どもたちもが、常に助けてくれる存在なのです。 

 

狩猟採集民の社会では、大人はこどもになにか教え込むことはなく、こどもが自主的な遊びや探索を通して自らを教育していき、大人はそれをサポートしていく、ということです。

 

狩猟採集民の考える「平等」

狩猟採集民は小さなバンド(通常は、こどもを含めて20人から50人くらい)で、広大な範囲をもつ土地を、得られる獲物と植物を探して場所から場所へと移動しながら生活しています。彼らのことを調査したほとんどの研究者が言及する彼らの角となる社会的価値は、「自律(個人的自由)」「共有」そして「平等」です。近代的な民主的社会に生きるわたし達も、一般的にはこれらの価値をもっていますが、狩猟採集民のこれらに対する理解と重きの置き方は私たちのとは比べ物になりません。

 

自律というのは、ひとことでいうと他人にあれこれ指図しない、ということのようです。例えば、誰かになにかするように言うことは控える、おせっかいな忠告もしない、など。狩猟採集民がこどもに対して「信頼にあふれる子育て」をすることの基盤はここにあります。

 

子どもを含めて、誰もが自分の選択が他人の自由や社会的なタブーを犯さない限り、毎日何をするかは自分の判断で決めます。しかしながら、自律の中に私有財産を蓄積したり、他人に借金を背負わせたりする権利は含まれていません。それらは、2番目に大切な価値である共有と反してしまうからです。

 

経済的な観点から見ると、共有することこそが、狩猟採集民のバンドの目的と言えます。人々は、食料を獲得したり、肉食動物から身を守ったり、子育てをしたりするのを協力してやるために、スキルと努力を惜しみなく共有します。彼らは、食料やものはバンドの者とはもちろん、他のバンドの人たちとさえ共有します。そのように喜んで共有することこそが、狩猟採集民を厳しい環境の中で、長きにわたって生き延びさせた理由なのです。(中略)狩猟採集民にとって、共有は気前のよさでも潜在的な取引の要素もありません。単純に、義務なのです、他の人よりも多くを持っていた場合は共有することは当然のこととされており、それをしなかった場合は冷やかされたり、軽蔑されたりするのです。

 

わたしの中に共有という価値観はすごくあります。みんなで共有していいものを作っていこう、とか、地域で子育てしていこう、とか、共有すれば誰もにとっていい結果が得られるはずです。でも、ひとりでも自分だけが得しようと考えるとこのシステムはうまくいきませんね。

 

狩猟採集民の自律と共有の捉え方と密接に関係するのが、文化人類学者のリチャード・リーが「断固たる平等主義」と呼んだものです。それは、私たち近代西洋の「機会均等」という考え方をはるかに超えたものです。それは、誰のニーズも同じように大切で、誰かが他のものよりもすぐれていると思われることはなく、誰もが他の誰かよりもたくさんのものを持っていることはない、という意味です。このような平等は、彼らの自律の感覚の一部なのです、つまり、不平等だと、たくさん持っているものや、自分がすぐれていると思っているものが、少ししか持っていない者を支配してしまうことになりかねないからです。

 

いま日本で「平等」というと、悪しき平等主義が連想されますが、狩猟採集民の考える「平等」はかなり違うことがわかっていただけるかとおもいます。

 

もちろん、狩猟採集民も中にはいいハンターや植物を採集する人、いい交渉ができる人、いいダンスが踊れる人などがいることは認識しており、それらのスキルには価値を置いています、それでも、彼らは、能力を見せびらかしたり、自分の優位性をあからさまに表したりすることは強く非難します。

 

戦で使われる武器を自慢したり、共有しなかったり、タブーを犯したりしたときは、冷笑されたり、嫌われたりします。最初の段階では、不適切な行動をとった者を物笑いの種にします。誰かさんは自分が「えらい人」だとか、「素晴らしいハンター」だと思い込んでいるよ、というような歌を作るかもしれません。

 

もし不適切な行動が続く場合は、次の段階として、その者が存在しないがごとく扱います。そのような対処法は、違反者を正気づかせるには極めて効果的です。みんなに笑いものにされるので、偉そうに虚勢をはることは困難です。また、もし食料を溜め込むことの代償がみんなに無視されることなら、それをすることに価値はありません。

 

みなでこうした平等の価値観を共有していれば、1人2人、そこから逸脱する人が出ても、無法地帯になったりはしないということがわかります。

 

狩猟採集民のこどもの1日

ピーター・グレイ著「遊びが学びに欠かせないわけ」より、まずは狩猟採集民のこどもたちの1日の過ごし方の描写を引用します。

 

アフリカのカラハリ砂漠で狩猟と採集をしているバンドの中で暮しているクウィという11歳の男の子の様子です。(文中に出てくるジュホアンシというのはクウィが属している文化的集団のことです。) 

 

彼には学校も、決まったスケジュールもありません。彼は、完全に目が覚めたときに起き、自分の好きなように1日を過ごします。ほとんどは、様々な年齢の子で構成された友達と遊んだり、探検したりします。大人の監督は一切なしで、集団の近辺のときもありますが、まったく遠く離れている時もあります。彼は、このようなことを4歳のときからしています。それは、ジュホアンシの大人たちが、こどもは論理的に考えることができ、自分をコントロールでき、大人の近くにとどまる必要もないと思っているからです。結果的に、毎日の探検が、新しい学びを提供してくれています。 

 

クウィと友達は役にたつ大人になりたいと思っているので、狩りなど生活に必要な技術を「ごっこ遊び」のかたちで練習し続けます。

 

弓矢を使って、蝶、鳥、ネズミ、ときには大きな獲物を追い詰めて、撃ちます。大人が組み立てた小屋や様々な道具に似たものも作ります。クーズー、ヌー、ライオン、その他のたくさんの動物の音や動くのものの物まねを、大喜びで大げさなやり方でします。クウィたちが優れたハンターになるためには、肉食動物から身を守ったり、それらの動物のクセを学んだりしなければなりません。そのためには、友達が異なる動物役を演じる遊びもします。自分たちのバンドや来訪している知り合いのバンドの大人達の話し方や動きを注意深く研究した上で、ユーモアたっぷりにそのモノマネもします。

 

ときには、秘密の隠された場所を見つけるために、クウィ達はブッシュの中に深く足を踏み入れることもあります。子供達は走り、追跡し、跳び、登り、投げ、そして踊ります。そうすることで、彼らは壮健で、バランスの取れたからだをつくるのです。

 

楽器を作り、聞き覚えのあるジュホアンシの歌を歌ったり、新しい歌を作り出したりすることもあります。彼らはこうしたことすべてを、自分たちがしたいからし、そしてみんな楽しんでしています。

 

それをしなさいという人は誰もいません。誰も彼らをテストしません。彼らに遊びを教えようとする大人もいません。けれども、ときには(特に若い)大人がおもしろ半分に加わることはあります。一方で、クウィたちが大人の始めたゲームや踊りに加わることもあります。彼らは自由な意思で学んでいくのです。

 

 これこそが、自然が設計した子ども時代なのです。

 

 とても自由で、楽しそうで遊びにあふれていますが、同時に遊ぶことで大人になってからの狩りに必要な動物の特徴を学んでいるし、しっかりした身体作りもしています。

 

幸せでかつ生産的な様子は、以前とりあげたレンズーリの拡充学習にも共通するものを感じます。

狩猟採集民という生き方

 こちらの本はリボンクラブ改めおひさまクラブのレオさんに教えていただいて読みました!

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

遊びが学びに欠かせないわけ―自立した学び手を育てる

 

 人類が誕生してからいままで、99%の時間を狩猟採集民として生きてきて、農業を始めてそれに応じた生き方をしてきた時間はたったの1%なのだそうです。

 

そして、狩猟採集民の大人と子供がどのように遊びながらたくさんのことを学んできたのか、こどもの学びにいかに遊びが欠かせないのかを語っている非常におもしろい本です。

 

わたしは、この中で、狩猟採集民的な生き方、農民的な生き方という考えを知り、すごく衝撃を受けました。

 

いままで企業で働いてきた中で、学校で学んできた中で、違和感を覚えたやり方はことごとく農業から派生したやり方だったこと。自分がここちよくやっていけるやり方は狩猟採集民的な生き方だったことを知ったからです。

 

わたしにとって、ここちよく、生産的で人の役に立てる生き方は狩猟採集民的な生き方なんだな、と知りました。

 

だったら農民的な生き方をする人に出会うたびにがっかりして無力感に陥るのではなく、狩猟採集民的な生き方をしたり、同じような仲間と一緒になにかしていけば、幸せに楽しく生きられるのでは?と考えています。

 

引き続きどんな生き方が狩猟採集民的なのか、記事にしていきたいと思います。

なぜ 勉強するの?

上の子は最近宿題ができません。3年になって気が緩んでいるのかもしれません。1年になったばかりの下の子がはりきって音読しているのを見て「あーあ。1年のときは宿題ちゃんとできていたのに最近できないんだよな」というので、少し宿題や勉強についてお話してみました。

 

◯◯はいまは小学生だから、宿題だけなんとかやれば、あとはおもいっきり遊んだ方がいいとママは考えているよ。◯◯のおともだちは毎日塾とかプリントやるお教室に通ってる子たくさんいるよね。でもママはそういうのは必要ないとおもっているんだ。どうしてかというと、好きなことをおもいっきりやったり、遊んだりする方が賢くなると考えているからだよ。

 

だって◯◯も、プログラミングが楽しいといってやっているうちに知らないうちにたくさん勉強できちゃってるよね。他にも遊んでいるうちに知らずに身についていることがたくさんあるんだよ。

 

「うん、やってるうちにいろいろ覚えちゃったよ!」とこども。

 

ところで、どうして勉強するんだと思う?

 

あのね、少し前にはこういう考え方が流行ったの。それは、小さいうちから塾にいってたくさん勉強すると、学校の勉強が得意になって、それで難しい中学校や高校、大学に進むと、いい会社に入ることができて、それでずっとそこで定年まで働いて一生楽に暮らせる、という考え方。

 

ママはそういう考えは古いとおもっているんだ。だけど、いまもそういう考えの人はたくさんいる。だから、◯◯のおともだちでも塾とかいってる子がたくさんいるんだよ。

 

ママは、自分の好きなことをやるために必要ないと思えば、大学に行かなくてもいいとおもっているんだ。例えば、着物の柄をデザインして染める職人になりたかったら、高校や大学に行かないで、職人さんに弟子入りしてお仕事を手伝いながら勉強したり、やり方を練習したりする方がいいかもしれない。

 

でも、パパは、たくさん勉強していい学校にいったほうが、いろいろなおもしろい人と知り合いになれて楽しいし、いい人生が送れると考えているみたいだよ。

 

ここで「えー?ママとパパで考えが違うの?」との声。

 

そうだよ、ママとパパも考えが違う。◯◯にもまた違う考えがあると思う。どうしたいか自分で考えて自分で決めるんだよ。例えば、プログラミングが楽しくて、そういうお仕事がしたいと思って、そのためには大学行った方がいいかなとおもったら、自分で勉強した方がいいとおもってするかもしれない。

 

あと、勉強ってとってもおもしろいんだ。おもしろいから、大学にいって勉強してもまだ足りなくて、その後大学院というところでもっと勉強する人もいるし、科学者とかそういう人たちは一生研究してすごすんだ。それは楽しいからなんだよ。

 

こんなことを話しました。

 

なんかもっと話すことがあるような気もしたけど、こどもがあきちゃったみたいなのでこのへんで切り上げました。それなりになるほどとおもっているようでした。

「不安」という名の妖怪

自分の親が不安発作を起こす話を以前にも書きました。

 

milkaddict.hatenablog.com

最近また同じようなできごとを体験したので、それについて考えたことを書いてみたいとおもいます。

 

他人の起こす不安発作をよく観察していると、最初はぽつりぽつりと口にする不安が、そのうちどっと爆発的にその質と量が拡大するということに気がつきました。

 

そうなるとそれこそ発作のようになって止まらなくなっているようなのです。

 

なんでも不安になるようで、ささいなことがすべて不安の引き金となります。

 

そうなると、「不安」というもの自体に乗っ取られているようになり、普段の人格では考えられないような言動が起きてきます。

 

論理的でなかったり、時に人を傷つけるようなことを言ってみたり。

 

口にする不安の中身も「不安のための不安」みたいになってきます。

 

まるで不安という食べ物をもっともっとと欲しがる生き物がとりついているんじゃないかという感じです。

 

ユングは、人々の意識は奥の方で「集合無意識」というものにつながっているといっていたと思いますが、ネガティブな気持ちを強く持ち続けるとネガティブな共同幻想のようなものにつながってしまうのかもしれませんね。

 

敏感さを持つ人間としては、特に気をつけた方がいいなと思いました。

 

ちなみに、不安を感じた時には「こんな風になったらどうしよう」と不安を否定するよりも、自分の中に不安があることを自然なことだと認め、いま自分はなにをどのように不安に思っているのか、透明に見つめることが大切だと考えています。

 

「不安なんかないぞ」と見て見ぬ振りをすると、なぜかますます不安が雪だるまのように大きくなっていくのではないでしょうか。

 

自分の経験からもそう感じるし、不安発作を起こしている親に向かって、冷静なコメントをすると、激高して絶対に認めようとしないので、特にそう思います。

 

また、常に自分の状態をよく見つめ、いまいったことは本当に自分がいいたかったことなのか、よく観察することで、本意ではないことをいったりしたりしてしまって、自分の大切な人を傷つけるようなことを防げるのではないかと思います。

 

学校に行きたくないといわれたら

上の子に、泣いて「学校に行きたくない」といわれてしまいました。

 

何回かそういうことをいわれたことがあるのですが、その度に内心かなり動揺します。

 

なぜかというと、わたしの基本的な考えとして、いまの学校のシステムというものが、わたしがこどもの頃経験したのとほとんど変わらない、自由のない、喜びの少ない場所だと捉えているからです。

 

つまり、こどもが本気で行きたくないならば、こちらも本気で対応する覚悟を持っています。通えそうな距離のフリースクールのリサーチもばっちりしています。ホームスクーリングについても調べています。

 

なので、そういうことをいわれるたびに、「またまた疲れているんでしょ」とはいわず、真剣に聞きます。

 

どのくらいの気持ちでいっているのか、もし本当に限界ならば、いまの学校をやめるのか、やめてどうするのか。

 

いまのところ、自分の存在が揺らぐくらいに真剣につきあっていると、こどもの方が、けろっと別のことを話し始めたり、後から風邪気味で疲れていたことが判明する、とかで結局小学校をやめる事態には至ってはいません。

 

卒業までに何回もこういうことが起きるのだろうし、そのうちやっぱり小学校をやめることになるかもしれないし、この先のことはわからないのですが。

 

でもこどもの悩みに、自分の存在が揺らぐくらいの覚悟で真剣に向き合うことは、その後拍子抜けするような事態になるとしても、やはりとても大切だと思うのです。

 

無駄ではないと思うのです。

 

そこまでの覚悟で話しを聞くことで、こどもの心がかろうじて救われる、ということもあるんじゃないかとおもいます。

 

地震の時の高層ビルみたいなイメージで。

 

たくさん揺れることで、こどものいろいろな思いを吸収できるのなら、それも意味があるんじゃないかとおもいます。