ある日の雨の日活動
どうも、雨の日はいろいろとこどもの活動が活発に行われるようです。
この日は、2人で秘密基地活動に励んでいました。ベッドと壁のすきまに布を張って、ラグを敷いたりお人形を寝かせたり、大事なものを並べたり。
なにかいろいろと設定があるらしく、下の子がこども部屋のおそうじやら、階段や廊下の雑巾がけやらしてくれるので、なぜだかわからないけど助かります。お掃除マンというのがいるんだそうです。
上の子はひたすら看板作り。こども部屋のドアにひみつきち、入らないでとかノックを3回すると入れます、とかたくさん作ってました。合言葉もあるそうです。
きれい好きリーダーだからと、リーダーと書いた赤いリボンを頭に巻いています。
呼ばれたとおもったら「人形雨」というイベントにご招待されました。ベッド脇の秘密基地のスペースに寝てくださいといわれ仰向きに寝ると、腕を広げてくださーい、といわれ、二段ベッドの上から人形やぬいぐるみが降ってきました。
人形やぬいぐるみの雨、だから「人形雨」だったんですね。
下の子と一緒にきゃーきゃーいってけっこう楽しいエンターテイメントでした。
おやつは、時間もあるしなにか作るか! と提案したら、上の子がほぼひとりで作ってくれました。
ホットケーキミックスにヨーグルトやレモン汁を混ぜて、ケーキ型がないのでホットプレートで焼いてみました。
爽やかでちょっとぷるんとしてなかなかおいしかったです。
次の日もまだ秘密基地ブームは続き、秘密基地で朝ごはん食べていい?と聞かれたのですが、さすがに寝室が食べかすだらけになるのは困るのでやめてもらって、その代わりにダイニングテーブルの下をきれいにして、そこで朝ごはんにしました。
秘密基地にはいつのまにかテント風の屋根ができていました。
失敗は終わりではないということ
子育てって本当に親の個性、子の個性、家庭の空気や状況などいろいろな要素が絡み合って、その中で子は例えば植物が芽を出して葉を伸ばし、すくすく成長していくように、その子の持っている力で成長していくものだと思います。
だから、親の側から見るとさまざまな子育てがあるし、子の側からみると、いろいろな育ちがあるのでしょう。
子の育ちという意味では同じように育てられている兄妹でまったく違う個性が花ひらくことからみても、子育てが公式通りの結果が出るようなものではないことがわかります。
そういう意味で、表面的には同じような子育てをしているように見えても、「この子は心配ないな」と思える場合と「だいじょうぶかな?」と心配になってしまう場合があります。
例えば、習い事をたくさんしている、とか塾に通って受験勉強をしているとか。そういうのってだからいい、とかだからだめ、とか一般論でいえることじゃないですよね。
心身ともにタフな子で、親子の信頼関係がしっかりしている場合は、そのくらいの負荷がちょうどよくて、伸びていける場合もあるかもしれません。
でも自分で主体的に選んだことをしっかりやりこむような体験が不足していて、親が与えるものを「なんか楽しくない」と思いながらそれをことばにできなくて、なんとなくつまらないとおもいながら、こなしているような場合、親子で衝突したりうまくいかなくなることもあるかもしれません。
そういう時、親は「失敗した!」と思ってあせってしまいがちですが、でも実はそこが始まりなんだと思うんですよね。「なにかおかしい、うまくいってない」というサインが出たのだから、ここで軌道修正すればいいんだっておもって、じっくりこどもと向き合ったらきっといい方向に向かうとおもいます。
目の前のこどもをよく見て、何が足りないのかよく考える。自分のこどもの頃を思い出してなにがいやで、なにがうれしかったか思い出してみる。自分の思いをこどもに押し付けていないだろうか、こどもは本当にしたいことはなんだろう。自分は本当にしたいことをして生きているだろうか。
子育てしていれば、試練は何度も訪れますが、そのたびに親も子も、より生き生きと自分らしく生きる生き方に少しずつ近づいていけたらいいですね。
現代は「失敗」ということに非寛容な面があり、すぐに失敗したと感じ、失敗したら終わりだと絶望してしまう人が多いと感じています。
ゲド戦記を書いたアーシュラ・K・ル=グウィンという作家の文章で「左ききの卒業式祝辞」というのがあってとても素敵なので紹介したいと思います。1983年に発表されたものです。(文章からすると、実際に女子大の卒業式で行われた講演の記録ではないかと思います。)
成功とは他の人の失敗を意味します。成功とは私たちが夢見つづけてきたアメリカン・ドリームです。我が国の三千万を含む様々な地方の人々の大半は貧困という恐るべき現実をしっかり見据えながら生活しているのですから。
そう、私はみなさんに御成功を、とは申しません。成功についてお話する気もありません。私は失敗についてお話したいのです。
なぜなら、みなさんは人間である以上、失敗に直面することになるからです。みなさんは、失望、不正、裏切り、そして取り返しのつかない損失を体験することでしょう。自分は強いと思っていたのに実は弱いのだと気づくことがあるでしょう。所有することを目指して頑張ったのに、所有されてしまっている自分に気づくでしょう。もうすでに経験ずみのことと思いますが、みなさんは暗闇にたったひとりで怯えている自分を見出だすことでしょう。
私がみなさん、私の姉妹や娘たち、兄弟や息子たちすべての人々に望むことはそこ、暗闇で生きていくことができますように、ということなのです。成功という私たちの合理的な文化が、追放の地、居住不可能な異国の地と呼び、否定しているそんな土地で生きていくことを願っています。
私はみなさんが犠牲者になることなどないよう望みますが、他の人々に対して権力を振るうこともありませんように。そして、みなさんが失敗したり、敗北したり、悲嘆にくれたり、暗がりに包まれたりしたとき、暗闇こそあなたの国、あなたが生活し、攻撃したり勝利を収めるべき戦争のないところ、しかし未来が存在するところなのだということを思い出してほしいのです。私たちのルーツは暗闇の中にあります。大地が私たちの国なのです。どうして私たちは祝福を求めて天を仰いだりしたのでしょうー周囲や足下を見るのではなく? 私たちの抱いている希望はそこに横たわっています。ぐるぐる旋回するスパイの目や兵器でいっぱいの空にではなく、私たちが見下ろしてきた地面の中にあるのです。上からではなく下から。目をくらませる明かりの中ではなく栄養物を与えてくれる闇の中で、人間は人間の魂を育むのです。
マイノリティのことをいっているようでもあるし、女子大での講演なのでもちろん社会に進出する女性へのメッセージでもあるのですが。
成功を追い求めすぎる傾向があるすべての現代人が、深く噛み締めたい文章でもあります。
成功があるということは失敗もある。失敗を忌み嫌って遠ざける生き方より、失敗と仲良くなる、そういう生き方が真の意味で豊かで創造的な生き方なのではないかと考えさせられます。
引用はこちらの本からです。
- 作者: アーシュラ・K.ル=グウィン,Ursula K. Le Guin,篠目清美
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2006/12
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自己肯定感が育っていないと
少し前の話しなのですが、20代の人とお仕事をする機会がありました。
その人はあまり自分に自信がないようでした。自信がないとどうなるか、というとチャレンジが難しいようです。新しいことがとても怖い様子でした。なにか注意されるんじゃないかとおどおどする。自己防衛的になる。保守的になる。自分の意見をはっきり表現するのが難しい。かと思えば相手に丸投げする。言い訳的なことをよく口にする。それからとにかく楽しくなさそうに見えます。情熱とかそういうものがあまり表に出て来ないので他の人には感じられない。
こちらはできるだけその人のいいところを伸ばしてあげたい、力になってあげたい、とおもっているのですが、そういう態度だとこちらもすごくやりにくいのです。まわりにはチャンスがあれば力になりたいと思っている人が他にもいるのですが、なにしろ本人はちょっとでもきついこといいそうな人には拒否反応を示すので、まわりも手を出すに出せない、という感じでした。
ここをよくしたらもっとよくなる、と教えたいけど、なにしろびくびくして防衛的になっているので、こちらも言い方考えなきゃ、という感じで、何重にもオブラートにくるんで伝えます。伝えたあとも卑屈になったり、言い訳したりするので、根気強くはげまします。別に責めてないのに勝手に先回りして謝ってきます。
こちらがなにか提案しても、新しいことにチャレンジしようとせず、自分の安心できるプランに頑なにこだわります。
先の計画を立てるにしても、どうせ自分なんて、とかどうせまたうまくいかないんだ、という思い込みにとらわれてカチカチに固まってしまっているように見えました。
といって、一生懸命やってないわけじゃないのです。その人なりに一生懸命やっているのです。見ていて切なくなるような一生懸命さです。得意分野に関しては詳しいし勉強していました。
なので努力が足りないとか根性がどうとかそういう問題じゃなく、なにかがうまくいっていないのだろうなあとはおもっていました。
自己肯定感のことをいろいろ考えていて、ふとその人のことを思い出しました。
もしかしたらこの人は自己肯定感がしっかり持てていなかったのかもしれないと。
自己肯定感がしっかり育たないと、こんなふうになるのかもしれない。
自分についてのセルフイメージが悪い。なにかできるとおもっていない。必要以上に卑屈になる。どうせできない、と自分に呪いをかけてしまって、その通りの結果を引き起こしてしまう。たくさん否定されいやなおもいをしてきて、もう傷つきたくない、と身を固くしてしまう。だから、傷つかないために、なるべくチャレンジしないで失敗しないように生きている。
結果的にまわりの差し出す助けをうまく受け取ることができないので必要以上に損してしまう。本人がうまくやりたいと思う気持ちとは裏腹に硬直した型通りの行動しかとれないために、結局周りが振り回され、フォローするはめになる。
本人としては一生懸命やっていて、仕事を成功させたいと心から思っているのに、どうしてもうまくいかず、その不成功体験が積み重なっていく。
本当の意味での対話、双方向のコミュニケーションがうまくできないのかな。そう考えると、子供の頃周りの大人にじっくり話しを聞いてもらえた経験も不足しているのかもしれません。
もちろん成功体験も少ないでしょうし、自己肯定感を高めるような対応もあまり受けた経験がないのかもしれません。
「できたことノート」の本に「自己肯定感が高い人は、自分の心のフタをあけて、純粋な心にアクセスできる。そのことによって新しい自分になれる。行動が起こせる。」とありました。
まさに、その逆のパターンということですよね。
いままで傷ついてきた経験から、心のフタをきっちり締めてそれが開かないように、もうこれ以上否定されませんように、傷つきませんようにとおもいながらカチカチに固まって生きている。硬直しているから新しいことができない。
わたしが一緒に関わったプロジェクトは、その人が抜擢されたもので、うまくいけばそれこそ成功体験になるはずだったのに、いろいろなものが指の間からすり抜けていく様子を間近でまざまざと見てしまい、本当に歯がゆいおもいでした。
いま思えば、その人自身も「こうしたい」とか「行動したい」と思っても自己肯定感が少なすぎて、エネルギータンクが空の状態で、動くに動けなかったのかもしれません。
願わくば、その思いっきり失敗したという経験から自分の殻を破って成長することができたのだといいですが。もしかしたら、いままでは自分の思い通りにやらせてもらって思い切り失敗する経験もしたことがなかったかもしれないですものね。
日本中に自己肯定感の低い人がたくさんいるということは、こういう人がたくさんいる、ということなのでしょうか。
学校や親といった周りの大人が知らず知らずのうちにそういう人をたくさん作ってしまっているのでしょうか。
ゆとり世代の人たちに失望する話っていうのを耳にすることがありますが、もしかしてそれって自己肯定感の問題だったりするのかもしれませんね。
わたしにできることはたかが知れているかもしれないけれど、目の前の自分のこどもに対して、自由に生き生きと生きられるように、失敗を恐れずチャレンジできるように育ってもらうにはどうしたらいいか、よく考えて接していこうと改めておもいました。
そして、同じように考える親が少しずつ増えて、少しずつ明るい社会が実現していきますように。
こどもとスポーツ、そして部活
部活、特に体育会系の部活にアレルギーというか、ほとんど恐怖感があります。
よい指導者に恵まれ、楽しく活動しているところもたくさんあるとはおもいます。わたし自身が運動が苦手のまま育ってきたので、特にいい例というのを知らないのは事実です。
あえていえば吹奏楽部に入っていたことはありますが、その時はやはりぎちぎちの上下関係、先輩から後輩に与えられる罰、いじめぎりぎりの理不尽さ、みたいなものがひたすら苦痛でした。
とにかく、限度を超えた上下関係、逃げられない息苦しさ、みたいなものが「体育会」に凝縮されている気がして恐ろしく、いまままでの人生でなるべく近づかないようにして生きてきました。実際に、部活での体罰やいじめが報道されることもあるのであながち根拠のない思い込みでもないのかなと考えています。
最近こどもがスポーツを始めたので、ただただ避けているわけにもいかないかもしれないと、いろいろ情報収集しています。
もしかしたら、最近はもっと自由で風通しのいい活動になっているかもしれないという淡い期待を持ちながら。
できるだけ先入観なく見ていけたらいいとおもうのですが。
いまのところ「うわ!」と思うような旧態依然の話も聞くし、今の時代はこうなんだ!と感動するような話もあります。どちらも併存しているようです。
先日見かけたスポーツの監督さん(多分)は、とても感じがよかったです。わたしは通りすがりでそのチームのことを何も知らないのですが、その時は試合の後公園で選手に振り返りの話をしていたようです。
選手たちは地面に座っていて、他の大人たちは立って話をしていたのですが、その監督さんらしき人はさりげなく地面に座り、こどもたちに目線を合わせて話をしていました。内容まで聞こえませんでしたが、時折笑顔も交え、ユーモアをもって話をしているようでした。その後、選手たちがなにか注意されているのが聞こえたのですが、その時もただ大声で怒鳴るのではなく、よく考えられた落ち着いたトーンで、しかしきっぱりと選手に注意しているようでした。
こんな素敵な指導者のいるチームでスポーツできたら、こどもたちうれしいだろうな、とおもいました。
本当に通りすがりなので一瞬の印象で書いていますが。
これからもこどもがスポーツをする環境がどうなっているのか、いろいろ見ていきたいとおもいます。
親の意識というのがとても大事なのではないかと考えています。
情報収集のために読んだ記事のリンクをいくつか貼っておきます。
学力よりもっと大事な「生きる力」
マイコー雑記さんで最近アップされている非認知能力の話題をおもしろく読んでいます。
例えば、学力や知能など、はかりやすい、目にみえる能力が認知能力だとします。(話をおおざっぱに省略&自分なりに解釈しています。詳しくはマイコー雑記さんの記事をご覧ください)しかし、こどもが成長する上で、伸ばすべき能力はそれだけじゃないんじゃないか、ということで、それ以外の能力、つまり非認知能力が注目されているのだそうです。
たとえばやりぬく力、自己肯定感、自制心、コミュニケーション能力、創造性、レジリエンスなどなど。
確かにこどもの成長を間近で見ていると、認知能力というのは氷山の上の目にみえる部分で、氷山は実は水面下の方が大きいように、目に見えないところに土台となる「生きる力」があってこそ、その上で認知能力が伸びるのではないか、と感じます。
非認知能力の定義はあまたあるようですし、諸説あるそうです。また、定義に入らない部分の非認知能力が大事なのかもしれませんし、そのへんはいろいろな考え方があるようだし、それでいいとおもいます。むしろはかれない、ことばにし難いことこそ非認知能力ともいえるとおもうのです。
認知能力は、誰にでもわかる能力だとすると、非認知能力はとらえがたい、目利きにしかわからない、でも大事な能力、という感じでしょうか。
やっぱりわたしも人間なので、つい気になるんですよね。目にみえる結果というものが。例えば学校の成績、スポーツの成果、賞状をもらうことなどなど。でも、そういうものには表れない、根っこの部分の大切なこと、というものに、いつも思いを馳せる親でありたいなとおもいます。
ここからはわたしが子育てしながら感じていることの話になるので、アカデミックな非認知能力についての研究からは少し離れます。
うまく説明できないながら、わたしが子どもに対して伸ばしてあげたいな、と感じていたことは「非認知能力」ということなのかな?と思うのです。
わたしなりに大事にしていることは、まず自己肯定感や自己効力感。できる、という思いがないと人間はなかなか前に進めません。勉強なり夢に向かってする努力なり、したくなった時にできる状態を作ってあげたいです。
また、悲しいことに暴力というものは弱いものからさらに弱いものへのと連鎖するものですが、自己肯定感をしっかりと育てることは、暴力の被害に遭うことからある程度身を守ってくれるとおもいます。自分が踏みつけにされそうになったとき「そんなのへんだよ」と思い、行動できる原動力は自己肯定感ではないかと考えています。
ひとりでやりぬく力を徐々につけていくこと。自立にもつながります。ただやみくもに放任するのではなく、ハードルの高さを親が調整してあげて、力が次第についていくようにしてあげるといいとおもいます。時に失敗するのもいい経験ですが、気力を失うようなてひどい失敗はなるべく少なくなるようサポートする方が、やる気がでるとおもいます。
また、進んで行く方向を決めるのは本人ですから、できるだけ親がさせたいことでなく、本人がやりたいことをさせるようにこころがけてます。これは、へたに親が干渉するよりも、やりぬく力をつけやすい選択でもあります。
あとは、創造性。AIにはできない芸当ですし、実際創造すると楽しいのでその楽しさを伝えたいです。創造することで、他との差別化というか、他の個性にはできないことをする、つまり自分にしかできないことをすることで自分の価値を高めることもできます。自分にしかできないことが、社会から求められたなら、一つの椅子を他人と取り合うようなことをしなくてすみます。
また、いまの学校で軽視されている楽しさ、柔軟性、創造性、好奇心、といったものは、たしかにそれがあればテストの点があがるものではないですが、人が学ぶためにとても重要です。
新しいことを知るのっておもしろいな、頭を動かすのって気持ちいいな、という思いを小さい頃抱くことができたら、その人は好きな時に学ぶだろうし、学ぶタイミングや場所や方法に囚われる必要もないでしょう。
こうした力をつけることが、学力を云々する前に必要、と考えています。
わたし自身、特に素晴らしい学歴の持ち主でもないのに、20代の頃は運と時流の波にのって大きい仕事を任されて生き生きと働いていたという経験の持ち主なので、それを思うとやっぱり認知能力の前に非認知能力ってすごく納得がいきます。
また自分としては、子どもに対して「自由で創造的で喜びに満ちた生き方を一緒にしようよ」という気持ちです。すぐに結果は出なくても、最終的にはその方が幸せな人生につながるとわたしはおもってますし。
生きるっておもしろいじゃないですか。それは傷つかない生き方でも、苦労しない生き方でもないけれど。
だから、役にたつからというだけでこういうことを子どもに身につけさせたいというのともちょっと違うかもしれません。
それでも、なかなか評価されにくいこうした価値観に光をあてることはとても大事だとおもいました。
自己肯定感を育てる、ということばでわたしがいいたいのはこんなことです。
他にも以前に書いた、自分が子育てで大事にしていることについての記事をリンクしておきます。
クッション製作中
こどもたちの着ていたTシャツをどうしても処分できず、ミニクッションにすることにしました。
もともと白地のTシャツだったものを、汚れが目立ってきたので夫の実家で義理の母に手伝ってもらって黄色に染めて、それでもしばらく着ていたのですが、さすがにもうサイズ的に入らなくなりました。
このルルとロロ、という双子のくまの女の子のキャラクターは2〜4歳くらいの年齢の設定かなとおもいますが、うちのこどもたちがそのくらいだった頃に2人でいつもくっついて同じことをしていた様子が重なり、わたしにとっては特に思い入れがあるのかもしれません。
上の子は少し自分で縫うといって、がんばっています。
自分たちが着ていた服をクッションにするのは安心感があるのか、すでに愛着がわいているようで、下の子は1日中持ち歩いています。
夏の終わり
秋晴れというには、少し早すぎたとある週末、近所の公園に家族で出かけました。
いつもの通り行き当たりばったりで、「行こうか?」「行こう!」となり、お昼は行く途中で適当に調達し、家からはレジャーシートとサッカーボール、ドッヂビーなど遊び道具と飲み物を持って出かけました。
8月ほどの蒸し暑さはないものの、まだまだ暑い!
しかし日陰にいればまあしのげなくもありません。風も吹いてます。
レジャーシートをひいてお昼ごはんを食べたら、ドッヂビーをしました。これは昔買ってすっかり忘れてたのをひっぱりだしてきたもの。フリスビーに似ているけどやわらかくて、あたっても痛くありません。
後は、スポンジボールをベルクロ付きのミトンでキャッチするのもしました。
次は虫とり。これもひさびさに発見された網で挑戦。小さいシジミ蝶を捕まえることができました。他に蝉や黒アゲハも見かけたのですが、つかまえられませんでした。小川で「とれたー!」といってた男の子に「なにがとれたの?」と聞くと、えびを捕まえたとのことでした。
その後は上の子とパパがサッカーで蹴り合いをしていました。先日試合を経験したせいか、テレビでワールドカップの予選を見たのがよかったのか、上の子は最近格段に意識が高まっているようです。
公園の遊具でもひとしきり遊んで、親はもう疲れたから帰ろうと声をかけても、こどもたちはなんだかスイッチが入って帰りたくないみたい。
親と公園で遊んでくれるのもあとわずかかもしれないので、お声がかかるうちはがんばらねば。
特にこの秋は下の子の公園遊びに力を入れる予定です。上の子は小学校に上がって、それまで毎日していた公園遊びをしなくなってしまったので、下の子の公園遊びもこれがラストチャンスかも?と思っています。